「ネズミが鳥を喰い尽くした無人島」で相次ぐ怪奇現象に襲われる “インドア派の鳥類学者”が真相に迫る
「子ども科学電話相談」で大人気のバード川上先生こと、鳥類学者・川上和人さん。今年はオリンピックのため、夏休み子ども科学電話相談の放送はない。しかし、がっかりしているあなたに朗報だ。累計16万部を突破した川上さんの鳥類学者シリーズ最新刊『鳥類学は、あなたのお役に立てますか?』から、とっておきの章を全文ご紹介する。今回お届けするのは「べっぴんさん、こんにちは」。舞台は小笠原諸島の火山島、北硫黄島だ。調査開始早々に暴風雨に襲われ、即時撤収を決めて悪路を進む調査隊を怪奇現象が襲う。給水したばかりの水筒が空に? 島に生息しているはずがない大型獣の気配が漂い、誰もいないところから話し声が……。先生、無事のご帰還を祈念申し上げます!
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カエル男の上陸
原生自然が残された奇跡の地、南硫黄島。そこから130kmほど北上したところに北硫黄島がある。間違って南下しても4万km弱進めばやはり北硫黄島に到着できる。こちらのコースは地球の丸さも実感できるので、時間さえあればそれはそれでおすすめだ。
北硫黄島の標高は792m、周囲を崖に囲まれた半径約1kmの地形的条件は南硫黄島に似ている。南硫黄島の無垢の生態系を調査した翌年、私は北硫黄島に上陸した。
群れをなす半魚人が海からぬぅっと姿を現す。彼らは数百kgに及ぶ荷物を黙々と海岸に揚げ、ウェットスーツを脱ぎ人間の姿に変化する。かつて母なる海の中で生まれた脊椎動物は陸に上がり、人類への進化の道のりを歩んだ。半魚人は英語でアンフィビアンマンとも称され、言うなれば両生類男だ。魚類から両生類を経て陸棲脊椎動物が進化した歴史を彷彿とさせる意味深な場面である。
荷揚げをサボって雄大なる進化の歴史に思いを馳せていると、栄養補給の時間が訪れる。亜熱帯の日差しの下、レーションを開封する。カロリーメイトにウイダーインゼリー、羊羹、ギョニソー、柿の種。コンパクトで高カロリーな携帯食の詰め合わせだ。
食後の一杯のコーヒーはフィールドでの小さな贅沢である。共用食料袋に詰め込まれたブレンディのスティックコーヒーを吟味すると、普通タイプとカロリーハーフタイプが混じっている。体力勝負の調査にカロリー半減とはなにごとか、調達担当者にクレームをつけなくてはならない。とはいえ、私も科学者の端くれなので、無闇な抗議の前にまずは冷静な状況把握が必要だ。
外寸は同じだが、重さを測ってみ0ると違いは歴然だ。普通のが15・7g、カロリーハーフは8・5g。ふむふむ、重さが半分ならカロリー半分という仕掛けか。これなら重量あたりのカロリーは同じ、運搬コストは変わらないな。1杯で十分なら前者、2杯楽しみたければ後者、同じ労力で二つの選択肢を用意するとは粋な計らいだ。筋違いのクレームで恥をかかずに済んだ。
おっと、深読みごっこをしている間にみんな出発してしまった。急いで荷物をまとめて最後尾を歩きはじめる。
ネズミ軍団の侵攻
海岸沿いの低木林を抜けると、忽然と巨大ガジュマルが現れる。ガジュマルは石造りの住居跡を飲み込み、今まさに人間の営為を自然に還元せんとしている。その姿はさながら天空の城のごとし。ラピュタは本当にあったんだ!
崩れかけた石垣、学校の門、居住区をめぐる水路。住居の入口にはサザエの殻蓋を埋め込んで幾何学的な模様が描かれている。孤島に確かに息づいていた村人たちのつましい生活が、巨樹に取り込まれて自然の一部になる。集落跡の向こうにある墓地に静かに手を合わせる。
北硫黄島と南硫黄島には、大きな違いが一つある。前者にのみ淡水の沢があるのだ。そのおかげで北硫黄島には1899年から1945年まで人間が居住した歴史がある。この約50年がその後の自然環境に影を落とした。
人間の移住には外来生物が随伴する。この島に見られるバナナやミカンの木は意図的に持ち込まれたものだ。一方でネズミは積荷とともに非意図的に島に侵入する。古来より食物を害する存在として歓迎されない存在だが、世に憚りながら絶海の北硫黄島にまで到達した。
戦前にはこの島に8種の海鳥と7種の陸鳥が繁殖していた。しかし、現在まで生き残っているのは海鳥2種と陸鳥4種のみだ。
北硫黄島に上陸したネズミは、世界各地の島に侵入実績を持つクマネズミだ。植物の種子や稚樹を好んで食べるため、彼らの存在は植物の更新を阻害して植生を貧弱にしてしまう。
それだけではない。食物不足などがあると突如として肉食に転じ、動物を絶滅へと誘うことがある。クマネズミは世界各地で鳥類を絶滅させてきたメトロン星人的存在なのだ。
まず犠牲になるのは海鳥だ。海鳥の多くは地上や地中に営巣するため、ネズミ類のターゲットになりやすく、300g以下の種は特に犠牲になりやすい。しかもクマネズミは木登りも得意なので、樹上の小鳥の巣もその影響を免れない。
北硫黄島では山域で地中営巣するミズナギドリ類とウミツバメ類が全て姿を消した。現在まで生き残る海鳥は、海岸で繁殖する大型種のみだ。巣穴でクマネズミに襲われるのは、宇宙船内のシガニー・ウィーバーより絶望的である。この島での海鳥消滅の最大の原因がネズミの捕食にあることは想像に難くない。少なくとも数十万羽が捕食されたと推測される。
山頂に向けて森林を進むと、なんだか大きな違和感を覚える。前年に南硫黄島の原生自然を見てきたからこその違和感だ。
おかしいな。自然が豊かだぞ? 植物がワシワシ生えているじゃないか。ネズミが食べ尽くしているんじゃなかったのか?
林内には下草や低木が生い茂り、なんだか南硫黄島より自然度が高く見えるのである。
1年前に見た南硫黄島の森林を思い出す。地面には無数に穿たれた海鳥の巣穴がもぐらたたきゲームのごとき様相を呈し、ぺんぺん草も生えないむき出しの地面が広がっていた。この多様性の低い風景こそが原生自然の姿だ。
私が目にした北硫黄島では、低木や草本がふくふくと生い茂り新緑で林内を彩っている。この豊かさが違和感の正体である。
海鳥は海で魚やプランクトンを食べ、陸上の営巣地で排泄する。排泄物にはリン酸や窒素など、植物の肥料となる成分が高濃度に含まれている。このため海鳥繁殖地は、化学肥料過積載トレーラーが悪漢に襲われて横転したかのような富栄養土壌となる。植物にとっての海鳥繁殖地は、ヘンゼル&グレーテルにとってのお菓子の家なのだ。
しかし、お菓子の家には悪い魔法使いが、うまい話には落とし穴がなくては寓話が成り立たない。ミズナギドリ類やウミツバメ類には、夜な夜な徘徊と巣穴掘削癖がある。十分な栄養が持ち込まれているにもかかわらず、常態化した踏み荒らしと穴掘りにより草本層は生えるに生えられず、グリムもイソップも溜飲を下げるのである。
ネズミが侵入すると海鳥がいなくなる。土壌には過去の遺産として肥料が蓄積されている。地上を攪乱する邪魔者は消えた。太平洋のただ中の島には雲霧が発生しやすく、水分条件は申し分ない。鬼退治により得られた宝物の効果は、ネズミの種子食害による更新阻害の負の影響より大きいのだろう。植物の更新が促進されて一見豊かな、しかしオリジナルとは異なる環境が生み出されたのだ。植生が変われば昆虫や土壌動物の構成も変わる。その影響は生態系の隅々まで広がっていく。
人為に起因する攪乱には、自然を貧弱な姿に変えるイメージがある。しかし逆方向に向かう攪乱も存在するのだ。
海鳥たちの沈黙
急斜面の登攀(とうはん)を終えると、「三万坪」と呼ばれる山頂近くの平坦部に到着する。地図上で計測してみたところ、約4万坪あることから、かつての住民は若干謙遜気味の典型的日本人だったことが窺われる。
ここまで登るためには、標高500~600mに位置する急勾配地を越えなくてはならない。核心部と呼ばれるこの地点では、傾斜を緩和するため斜面をトラバース気味に斜めに登る。それでも傾斜がきついため、登山家に設置してもらったザイル伝いに登っていく。
ザイル部分は危険なので一人ずつ登る。先行する隊員の影がロープを固定した岩の向こうに消えたら私の番だ。
と思っていたら突如として彼は視界から消えた。残念なことに、岩の向こうではなく谷の下に向かって消えた。どうやら足を滑らせてプチ滑落の旅に出かけたようだ。
斜面途中にひっかかった彼は、落ちた落ちたと少し嬉しそうに手を振っている。ちょっとアドレナリンが出てテンションが上がったのだろう。足元のタマシダは夜露に濡れ滑りやすい。彼のおかげで危険箇所が把握できたことは僥倖(ぎょうこう)と言える。
水筒にアミノバイタルを足し、ウイダーインゼリーを食べる。ドーピングしたから大丈夫、俺はやれると唱えながら急斜面に挑む。
倒(こ)けつ転(まろ)びつ到達した三万坪では、咲き誇るアジサイ群落が出迎えてくれた。それにしてもお腹が空く。もう1本ウイダーを摂取しようとして気付く。ん? パッケージがいつもと違うぞ? なんと私が担いできたのは、カロリー重視のウイダー・エネルギーインではなく、20%しか熱量のないウイダー・ファイバーインではないか! これじゃぁ担いできた消費カロリーを補填できないよぉ。
「エネルギーインはスーパーの在庫を買い占めちゃっても足りなくて、とりあえず……」
調達担当の言に打ちひしがれる私の心に共感し、いつしか雨が降り始めた。
天よ、一緒に嘆いてくれるのか。でも大きなお世話だよ。今から調査だよ。
テンションが下がるが、調査しないわけにはいかない。もしかしたらどこかに海鳥が生残してはいないかと雨中を探し回るが、結局海鳥は見つからなかった。やはり山域の海鳥は絶滅しているのだ。
さて、例えば凶悪宇宙人が私を洗脳し、北硫黄島の海鳥を殲滅(せんめつ)せよと命令したとしよう。地形が急峻でアプローチできない場所の多い島で、全域に分布する数十万羽の海鳥を採り尽くすのは不可能だ。火をつければいいのか? 雲霧をまとい湿潤な島の全域を劫火の焔に包むのは現実的ではない。コツコツと木を伐り森林を奪っても石の隙間や草原に営巣する。しかも寿命が数十年あり、前年に繁殖に参加していなかった個体が毎年帰ってくる。一時的に全滅させてもまた出現するだろう。
しかしネズミは海鳥の全島根絶をやってのけたのだ。彼らは島の生物にとって最凶の侵略者なのである。海鳥のいない静かな森を歩きながら、改めてそう実感した。
寂しがり屋のべっぴんさん
雨は激しくなり強風を伴う。母船から、フィリピン沖に台風発生との無線が入る。こうなったら即時撤収だ。隣の隊員が水筒に水を補給し終わったら、いざ出発である。悪路を慎重に下ろう。
「あれ? 水が出ないぞ?」
さっき給水したばかりの隊員が首をかしげる。水筒が空になっている。ザックの中にこぼれてもいない。お水はどこに消えた? みな平静を装うが、心中がざわめく。原因がわからぬ現象は人を不安にさせるのだ。
こういう時の対処法は一つ、名前をつけることだ。名前のある現象はもはや捉えがたい未知の怪奇ではなく、擬似因果関係を生成して自分を騙し不安を振り払える。
命名『べっぴんさん』。
「べっぴんさんが飲んじゃったんだよ。しょうがないよね」
一件落着である。
調査器具の回収のため、他の隊員から遅れて単独で道を下る。集落跡地に差し掛かると、大きな褐色の物体が木立の中を猛スピードで通り過ぎた、ように見えた。この島にそんな生物いたか? いや、疲れで見間違えたのか?
「べっぴんさん、かな」
一件落着である。
「ゴムボートが転覆した!」
「暗闇の中、誰かの足音がします」
「誰もいないところから話し声が……」
「べっぴんさん、だよね」
実はこの島では、過去にもトラブルや不思議現象がよく起こっている。おそらくべっぴんさんは寂しがり屋で、たまの来訪者についちょっかいを出すのだろう。とはいえ私も科学者の端くれなので、超常現象を信じているかどうかは内緒だ。
この島には過去に人が住んでいた。わずか50年に満たない入植の痕跡は、今も様々な形で島に刻印されているのだ。