水谷隼が語る伊藤美誠との“ダブルス結成秘話” 亡くなった祖父が遺した言葉「隼と美誠のダブルスを見たい」

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祖父の夢

「隼と美誠のダブルスを見てみたい」

 水谷にそう伝えていたのは、14年に82歳で亡くなった祖父の暁二(きょうじ)さんである。

「会うたびに口にしていたのでよく覚えています。まさか、オリンピックで実現するとは、運命としか思えないですよね」

 水谷が伊藤の存在を初めて知ったのは、ドイツへの卓球留学中だった。実家から歩いて5分もかからないところに、小学校に入学したばかりの伊藤が母親とともに引っ越してきたのだ。ともに自宅に卓球台を置く卓球ファミリーが、家族ぐるみの付き合いを始めるのに時間はかからなかった。

「ドイツから帰国するたびに美誠の家に遊びに行くようになりました。当時から1日6時間以上卓球の練習をしていたそうですが、僕が“一緒に卓球やろうよ”って誘ってもやってくれないんです。無邪気な甘えん坊といった感じで、いつも背中にとびついてきてましたね」

 伊藤は自宅で母の指導を受けながら、豊田町卓球スポーツ少年団の練習にも参加するようになった。練習場所の体育館によく姿を見せていた暁二さんは、次々と最年少記録を更新していく天才少女と、日本のエースに成長した孫がペアを組む姿を夢想したのだろう。

 水谷も「ジュン」「ミマ」と今も昔も下の名前で呼び合う11歳年下の才能を特別な視点で見守っていた。

「(主流である「裏ソフトラバー」以外の)異質ラバーを使うと強くなれないと言われていたんですが、バック側に異質ラバーを貼っていた美誠はその壁をぶち破った。彼女の凄いところは、プレーの引き出しが多くて一つひとつのプレーに自信を持っていること。自信があるから判断に迷いがないし、相手が予測できないプレーができる。それに加えて、リオでオリンピックの怖さを体感したことが彼女を大きく成長させたと思います」

 水谷が一躍「時の人」となったリオ五輪に、伊藤は15歳で出場した。団体戦のメンバーとして銅メダル獲得に貢献したが、水谷が鮮明に記憶しているのは準決勝のドイツ戦である。一番手でペトリサ・ゾルヤと戦った伊藤は最終ゲームを9―3とリードしながら、大逆転を許して敗れたのだ。

「オリンピックの準決勝という大舞台なのに、目に見えてプレーが雑になってしまった」と、伊藤のプレーを会場で見ていた水谷は振り返る。

「結果的に日本の女子はドイツに敗れ、ロンドン大会に続いての決勝に進めなかった。美誠にとっては悔しくて忘れられない体験だったはずです。でも、あの負けを糧にしたから、リオのあとの彼女は中国選手を倒せる実力を身につけることができたと思います」

 ともにオリンピックの怖さを知る2人のペアは20年3月のカタールオープンで優勝するなど、好成績を残してきた。許キン・劉詩ブンの中国ペアや林イン儒・鄭怡静の台湾ペア、李尚洙・田志希の韓国ペアなどが強力なライバルだが、水谷は「メダル獲得の可能性は70%、金メダルの可能性も20%はある」と、胸の中にある自信を数字で明らかにした。

「美誠はパートナーを組む女子選手として最高です。男子選手のボールを返すのを楽しんでいるし、僕にもしっかり指示を出してくれる。2人の感性がうまく響きあえば、見ている人を驚かせるプレーもできると思う。美誠をしっかりサポートして、リオであと一歩届かなかった金メダルを胸にかけた時の感情を味わってみたいですね」

セカンドキャリアは…

 曲折を経て開催される東京オリンピックで私たちが目にするのは、これまでとは全く違うオリンピックの風景かもしれない。

 だが、水谷は「コロナ禍で大会を中止する声が高まっていたときは、中止になるのは仕方がないし、その決定を受け入れるしかないと思っていました。でも、こうやって開催されることになれば、どんな条件があってもオリンピックは特別な大会なんです」と、落ち着いた口調のまま続ける。

「14歳でドイツに行った頃から、漠然とですが、将来はいろんな人をサポートする仕事をしたいと考えてきました。それは今も変わらないし、現役を引退したあと、その思いをどの程度のレベルで実現していけるのか、そのビジョンを左右するのが東京オリンピックだと思っています。リオで卓球人生が大きく変わったように、東京での結果次第で僕のセカンドキャリアは大きく変わってくる」

 これまでとは明らかに違うモチベーションで最後のオリンピックに挑む日本卓球界の至宝は、どんなパフォーマンスで新たな未来を切り開いていくのだろうか。

ノンフィクション作家 城島 充

週刊新潮 2021年8月9日号別冊掲載

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