水谷隼が語る伊藤美誠との“ダブルス結成秘話” 亡くなった祖父が遺した言葉「隼と美誠のダブルスを見たい」

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 前回リオ五輪で2つのメダルを獲得し、卓球ブームを巻き起こした水谷隼。その水谷に、ノンフィクション作家でびわこ成蹊スポーツ大学教授の城島充氏が単独インタビュー。「最後の五輪」を前に、挫折からの復活と、ダブルスを組む伊藤美誠との縁を聞いた。「週刊新潮 別冊『奇跡の「東京五輪」再び』」より(内容は7月5日発売時点のもの)

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 2つのメダルを胸にリオデジャネイロから帰国した時、500人を超えるファンが羽田空港で出迎えてくれた。その光景は5年近い歳月が流れた今も、水谷隼のまぶたに焼き付いている。

「卓球は女子にばかり注目が集まっていたので、うれしかったですね。もし、リオでメダルを獲れていなかったら、男子卓球の未来は永遠に閉ざされていたかもしれない。今でもそう考えることがあります」

 南米大陸で初めて開催されたオリンピックで、長きにわたって日本卓球界を牽引してきた27歳は男子シングルスで銅メダルを獲得、日本卓球史上初のシングルスの五輪メダリストとして歴史に名を刻んだ。団体戦でも決勝の中国戦も含めて起用されたすべての試合で勝利をあげ、銀メダル獲得の原動力になった。

 人々の心を揺さぶったのは、メダル獲得という結果だけではない。惜しくも敗れたものの、シングルス準決勝で卓球界の頂点に君臨する馬龍(中国)と繰り広げた繊細にして壮絶な打ち合いは“神ラリー”と賞賛され、日本の情報番組でも特集された。

「卓球を野球やサッカーのような人気競技にしたい」という思いを抱き続けてきたメダリストは、このチャンスを逃さなかった。

 時間が許す限りメディアの取材に応じ、テレビのバラエティ番組にも積極的に出演した。卓球のプロリーグが開幕すると、所属する木下グループを初代王者に導き、自身はシーズンMVPに輝いた。張本智和という14歳年下の才能が台頭してくると、先駆者の矜持をにじませながらようやく現れた後継者のサポートを惜しまなかった。

 卓球という競技がかつてない注目を集めるなか、水谷は常にその中心にいたのである。

「オリンピックで人生が変わる。そのことを身をもって実感しています。リオの後も怪我や目の不調、コロナ禍と、いろいろ苦しいことがありましたが、自分に自信をもって対処できたのも、心の底にリオでの達成感があったからかもしれません。今は日々の練習で昨日よりも強くなっている自分を感じられることがうれしいし、卓球をすることが楽しいんです」

 語り口や表情からは気負いや緊張、不安といった感情は微塵も感じられない。卓球専門誌はその心境に「泰然自若」という言葉を重ねたが、かつては孤高のイメージが強かった天才肌のアスリートが等身大の自分と向き合えるようになった要因は、おそらく“メダル効果”だけではない。

 リオ五輪が終わったあと、団体戦のメンバーとして日本の銀メダル獲得に貢献した吉村真晴はこんなコメントを残している。

「リオの水谷さんはすべてが完璧でした。僕がどれだけ強くなっても、リオの水谷さんには勝てない」

 息づかいを感じられる距離でプレーを見ていたチームメイトは正直な思いを吐露したのだろうが、水谷は「リオの僕が特別だったわけではないんです」と、自らの記憶を振り返る。

「あの時点で持っていた能力を普通に発揮できたという感覚です。コンディションに関係なく、オリンピックの舞台でプレーするための準備がしっかりとできていたんだと思います。それはロンドンから4年の歳月をかけた準備でもあるし、ラケットを初めて握ったときから積み上げてきた準備だったのかもしれません」

 父親の信雄さんが代表を務める地元の豊田町卓球スポーツ少年団で5歳の時に卓球を始めた水谷は14歳でドイツへ渡り、ブンデスリーガで天性の柔らかいボールタッチに磨きをかけた。

 17歳7カ月の最年少記録(当時)で全日本選手権男子シングルスを制すると、前人未踏の5連覇を達成、日本男子が低迷を続けていた国際舞台でも、2008年の世界選手権広州大会(団体戦)で鮮烈なプレーを披露し、8年ぶりとなる銅メダル獲得の立役者になった。

失意の日々

 だが、天才の称号とともに卓球界の未来を託されたホープにとっても、オリンピックの壁は高かった。

 19歳で初めて出場した08年の北京五輪は、シングルスで3回戦敗退、団体戦は準決勝でドイツに屈した。続くロンドン五輪は第3シードとしてシングルスに挑み、日本人初のメダル獲得への期待が高まったが、4回戦でマイケル・メイス(デンマーク)に不覚をとり、団体戦も準々決勝で香港に敗れた。

「北京の時は世界ランキングも20位以下で、アジア大陸予選を勝ち抜いて出場するだけで精一杯でした。ロンドンはメダル候補と言われたけど、その実感も自信もなかった。プレッシャーとうまく向き合うことができず、試合前日はアルコールの力を借りないと眠りにつけませんでした」

 この大会で日本初のメダルを獲得したのは女子チームだった。平野早矢香、福原愛、石川佳純の3人が団体で銀メダルを獲得。帰国時の成田空港では花束を贈られた女子チームがメディアに囲まれる中、男子は形だけの代表質問を受けただけで、水谷はうつむいたまま祝祭ムードにわく空港を後にした。

 そしてロンドン五輪後、日本のエースは更なる失意の日々を送ることになる。

 海外のトップ選手たちが打球の威力を増すため、ラバーに補助剤を塗り込み、ルールで禁止されている“後加工”をしている実態を告発。国際大会への出場をボイコットし、半年近くもラケットを握らなかった。しかし、国際卓球連盟の動きは鈍く、問題は解決しないままに終わる。

 周囲との意識の差に孤立感を深めていった水谷は、ブランクから復帰直後の全日本では丹羽孝希に敗れ、前年の吉村に続き、2年連続で後輩に天皇杯を譲った。

 さらに負の連鎖は続き、13年5月の世界選手権パリ大会(個人戦)では、シングルスで初の初戦敗退という屈辱を味わった。

 水谷自身が「一番きつかった」と振り返るのは、ジュニア時代から「芸術的」と賞賛されてきた後陣でのラリーさえ批判の対象になったことである。水谷の卓球は美しいが、攻めが遅い。中国に勝てるのは、丹羽のような前陣速攻のより攻撃的なスタイルだ――と。

「正直言って、いじけましたね。たったの2、3回負けただけで、そこまで評価が変わるのか、と。すべてが悪い方向へ流れていって、卓球をやめようかと本気で悩みました」

 もし、この挫折体験を糧にできていなければ、リオのコートに立つまでの「準備」は全く違うプロセスを経て、全く違う結果につながっていたかもしれない。

「でも、どん底の状態まで落ち込んで初めて、このまま卓球をやめたら一生後悔することに気づいたんです。自分がもっとできることを証明しなければならない。誰も手を差し伸べてくれないのなら、一人でやってやる、と」

 水谷の新たな挑戦は周囲を驚かせた。練習環境に恵まれた日本を離れ、13年9月からロシアのプロリーグに参戦したのだ。徹底した自己管理を求められる異国のプロチームで体を絞り、個人契約した邱建新(きゅうけんしん)コーチの指導で「チキータ」と呼ばれる台上の攻撃的なレシーブを磨いた。

 そうした覚悟と研鑽の結果、水谷はチームメイトが驚嘆する攻撃的なプレースタイルと、その技術を大舞台で出し切る勇気を身につけていたのである。

「オリンピックは一本のミスが命とりになる。みんなそのことがわかっているから、どうしてもプレーが慎重になるんです。中国選手も例外ではありません。でも、僕はあえてミスをするリスクをおかして積極的に攻めた。だから中国の選手にも勝てたし、メダルを獲得することができた。そのことだけは、自信をもって断言できます」

 あれから4年と1年。世間の注目を男子卓球に集めた功績を「ずっと陽の当たる道を歩かせていただいています」とユーモアで包み込む32歳は、4度目となるオリンピックで男子団体戦と今大会から採用される混合ダブルスの出場権を得た。

「団体戦はエースの張本が2点とって、僕と丹羽であと1点を獲りにいく展開を作ることができれば、メダルに近づける。張本は世界のトップに立つ能力を持っています。彼にとって東京は初めて体験するオリンピックですから、シングルスも含めて日本卓球界の未来につながるような結果を残してほしい」

 そして「東京での目標はリオで届かなかった金メダル」と公言してきた水谷にとって、その可能性が最も高い――と期待されるのが、同じ静岡県磐田市出身の伊藤美誠(20)とペアを組む混合ダブルスである。

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