「スポーツしかできないバカ」発言に見る大学教授の思い上がり 他者の「自由」を守る態度の重要性(古市憲寿)

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 上智大学教授の中野晃一さんがツイッターで「スポーツしかできないバカって本当に世界的にこんなにゴロゴロいるんだね。医療崩壊目前にしてオリンピックやらんだろ」と発言していた。オリンピックに参加する選手を直接的に批判したものだ。中野さんの知名度の低さゆえ炎上は小さかったが、絵に描いたような「大学教授」らしい発言である。

 仮にスポーツ選手が「スポーツしかできないバカ」なら、大学教授は「研究しかできないバカ」だ。だが、それで構わない。哲学者プラトンがレスラーとしても名を馳せていたように例外も多いが、プロは本業以外「バカ」でもいいのだ。

 スポーツ選手は、あくまでもスポーツの能力が買われ、公費が投入されたり、社会から応援を受けている。同様に大学教授も、研究者として有能であるという前提で、税金による恩恵を受けている。上智大学(学院)には2020年度だけで約41億円もの補助金収入があるし、中野さんも科研費という仕組みを使って税金で研究をしていた。

 それは何ら咎められることではない。だが気になるのは、中野さんがスポーツ選手をいとも簡単に「バカ」と断じていることだ。その理屈が通るなら、「大学なんて研究しかできないバカの集まりだ。廃止してしまえ」と言われても仕方がない。

 最近、大学教授らが集まって『「自由」の危機』(集英社新書)という本を出版した。当然、新型コロナウイルスの流行する中で、事実上の私権制限に対する異議申し立てかと思ったら、全然違った。ほぼ全編にわたって日本学術会議の会員候補の任命拒否や、あいちトリエンナーレについての恨み節が述べられているのだ。

 当事者にとって切実な問題であるのは理解できる。しかし、予防的に私権を制限される飲食店がたくさんある中で、自分たちの関心事ばかりを「自由の危機」と言われても困惑してしまう。言論の自由と学問の自由が大事なら、営業の自由も重要なはずだ(憲法学でも経済的自由は軽んじられやすいという)。「そういう本ではない」と言われてしまえばそれまでだが、コロナへの言及は少ない。戦時下の不自由は回顧できるのに、それを現代には重ねない。

 自由主義や個人主義には二方面からの批判があり得る。国家主義者からの「個人のわがままを認めすぎるな」と、左派からの「自由で強い個人を前提にした社会観は、自己責任論に結びつきやすい」といったものだ。もともと自由主義に懐疑的ならば、左派が感染症対策と称した強権的な国家の政策に対してあまり批判の声を上げなかったのもわかる。社会保障の延長で私権制限を理解したのかもしれない。

 視野狭窄的に「自由の危機」を訴えるのもいいだろう。しかし分業化と専門化の進んだ現代社会は、前提として各分野へのリスペクトがないと成立しない。自分たちの「自由」だけが特権的に守られるべきで、象牙の塔の外側の「自由」はどうでもいいというなら、その態度こそがまさに「自由の危機」である。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2021年7月29日号掲載

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