瀬戸大也と萩野公介、恩師らが振り返る「奇妙なライバル関係」 片方が沈むともう片方が復調

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気力を失った瀬戸は…

“事件”が起こったのは、二人が中学2年の時。全国JO杯夏季大会の400メートル個人メドレーで、瀬戸が萩野に勝ったのだ。萩野が同い年の選手に敗れるのはそれが初めてだった。

「あの時は確か、高速水着が流行っていて、瀬戸選手も着ていた。一方の公介は普通の水着でした。それもあってあの時は瀬戸選手が勝ったのだと思います」

 と、前田氏。

「実力としてはまだ公介の方が上回っている時期でした。ただ、負けたことは確かですから、公介本人も“もっと練習しないとな”となったと思います。僕は“公介を負かした瀬戸選手、すごいな”と素直に感じていました」

 萩野と同じ「みゆきがはらスイミングスクール」出身で、13年に引退した元水泳選手の森洋介氏は、

「萩野選手と瀬戸選手のライバル関係でいうと、やっぱり中2の夏のJO杯ですね。それまで僕は瀬戸選手のこと、名前も知らなかったです。まさか萩野選手が負けるとは!とびっくりして、僕も泣きそうなくらい悔しかったのを覚えています」

 萩野は弟のような存在だったという森氏。大会や合宿などで一緒になるうちに瀬戸とも友人関係になった。

「レース直前、萩野選手は自分を鼓舞するように常に体を動かしている。僕は“今まで練習してきたんだから今更かな”とダラーッと寝そべったりしていた。瀬戸選手はそんな僕を見て、“何やってるんですかー?”と話しかけてくる。そんな関係でした」

 森氏はそう振り返る。

「萩野選手のすごさは練習にも表れていました。普通、練習の時は自分のベストタイムよりかなり落ちます。でも萩野選手は練習でもほぼベストタイムと変わらない速さで泳いでいました。想像をはるかに超えた存在です。瀬戸選手の練習は普通といえば普通でしたが、とにかく本番に強い。ここぞという試合で勝てるポテンシャルが瀬戸選手にはありました」

 中学から作新学院に通っていた萩野は、高校では7限目まで授業がある「英進部」に進学。瀬戸は埼玉栄高校に進んだ。

「瀬戸選手は“公介が目標”と公言していましたが、公介はあまり自分から瀬戸選手について言及しませんでした。ライバル視したくないのかな、自分の中でライバルと認めたくないのかな、と傍から見て思っていました」(先の前田氏)

 瀬戸は高校1年の時に参加した世界短水路の400メートル個人メドレーで日本新記録を出して優勝。高校2年の時も順調に記録を伸ばし続けていた。

「高校2年の頃、ロンドン五輪の選考会がいよいよ近づいてきたぞという時、公介のタイムが伸び悩んだ時期がありました。その頃の瀬戸選手は大会で自己ベストを次々に更新していたので、公介としては焦りはあったと思います」(同)

 しかし、高校3年の時に迎えた日本選手権で優勝し、ロンドン五輪の切符をつかみとったのは萩野だった。瀬戸は直前にインフルエンザに罹ったことも影響して3位。ロンドン五輪行きを逃した。それによって泳ぐ気力を失ってしまった瀬戸が復活を誓うきっかけとなったのは、萩野だった。

「ロンドン五輪が始まってもテレビ観戦すらしていなかった瀬戸は、“萩野のレースだけはどうしても応援したい”ということで400メートル個人メドレーを予選から見たといいます」

 そう話すのは先のスポーツ紙記者。

「予選を1位で通過した萩野は決勝でも期待通りの泳ぎを見せて銅メダル。その姿を見た瀬戸は“いつまでもウジウジしていられない”と奮起するのです」

 ロンドン五輪後、萩野は東洋大学、瀬戸は早稲田大学に進学。4年後に迎えたリオ五輪の結果は先述した通りである。

「リオ五輪が終わった後、萩野にとっては辛い時期が続きました。骨折した右ひじの手術を五輪後に受けて、それ以降、しっくりくる泳ぎができない感じが続いていました。さらに18年の1月には体調不良で3週間ほど入院しています。肝臓の数値が悪かったようですが、検査の結果に問題はなかったそうです」

 と、先の矢内氏が話す。

「また、19年春には長期休養を発表しています。リオ以降、思うような泳ぎができず、その影響がメンタルに出てモチベーションが低下したのでしょう。休養中にはヨーロッパを一人旅して、サッカー日本代表の大迫勇也選手と連絡を取り合ったりして、自分を見つめ直したそうです」

奇妙な法則

 萩野の母校、作新学院水泳部元顧問の高野照三氏によると、

「休養を発表した頃、萩野選手は作新学院に来ています。何のために来たのかはあえて聞きませんでしたが、私は“応援しているからしっかり頑張れ”と声をかけました」

 復帰後の19年9月には歌手のmiwaと結婚することが報じられ、翌年1月に第1子が誕生している。

「萩野は復帰後も調子がなかなか上がらなかった。もし東京五輪が20年に予定通り開催されていたら、出場できていなかったでしょう」(先の矢内氏)

 一方、17年に元飛込選手の馬淵優佳さんと結婚し、その後、2人の子供に恵まれた瀬戸。リオ五輪後も好調を維持し、19年の世界選手権では200メートルと400メートルの個人メドレーで2冠を達成。早々に東京五輪内定を決めた。しかし20年3月、東京五輪の1年延期が決定。そして9月には「週刊新潮」に愛人との「ラブホ密会」や「メドレー不倫」を報じられ、ANAとの所属契約が解除に。日本水泳連盟からは年内の活動停止処分を受けた。

「瀬戸の活動停止処分期間の20年12月に行われた日本選手権の400メートル個人メドレーで萩野は2大会ぶりに優勝。劇的な復活をとげました」(先のスポーツ紙記者)

 ライバルの片方が“沈む”と、もう片方が“昇る”――奇妙な法則がここでも繰り返されたのだ。

 21年2月に実戦復帰を果たした瀬戸。その2カ月後に行われた日本選手権兼東京五輪代表選考会では久々に萩野と対決した。

「萩野は200メートル個人メドレーに絞って出場し、1位の瀬戸に続く2位となり、五輪の切符を手にしました。瀬戸は400メートル個人メドレーでも優勝しました」(同)

 先の矢内氏が言う。

「もし萩野が東京五輪に向けてさらに復調できた場合、萩野が200メートル個人メドレーで金、瀬戸が400メートル個人メドレーで金の“ダブル金”も十分にあり得ると思います」

 東京五輪の晴れ舞台で“太陽と月”は同時に輝くのか――。

週刊新潮 2021年8月9日号別冊掲載

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