瀬戸大也と萩野公介、恩師らが振り返る「奇妙なライバル関係」 片方が沈むともう片方が復調

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 長らく不調に悩まされていたが、東京五輪の延期が決まった後に劇的な復活を遂げた競泳の萩野公介。延期後に不倫が発覚し、人気と信頼とスポンサーを失った瀬戸大也。男子200メートル個人メドレーで直接対決する二人のライバル関係は、奇妙な因縁に彩られている。「週刊新潮別冊『奇跡の「東京五輪」再び』」より(内容は7月5日発売時点のもの)

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 萩野公介と瀬戸大也。

 奇しくも同じ年に生まれた不世出の二人のスイマーの関係は、太陽と月にたとえられるかもしれない。当然ながら、空で太陽と月が同時に輝くことはない。それと同じように、萩野と瀬戸も、どちらかが好調で“輝いて”いる時、もう一人は不調やケガなどで“停滞期”に入っていることが多いのだ。しかしそんな二人にも、共に好調を維持したまま大舞台で相まみえたレースが少ないながらも存在する。その一つであり、二人のライバル関係の「集大成」ともいえるレースが繰り広げられたのが、2016年8月に開催されたリオデジャネイロ五輪である。

 8月6日に行われた競泳男子400メートル個人メドレーの決勝。萩野は第3レーン、瀬戸は第5レーンだった。スタートのバタフライで1位に躍り出た瀬戸を萩野が追う展開となったのは事前の予想通りである。2種目め、得意の背泳ぎで瀬戸をかわして1位となった萩野は続く平泳ぎでもトップをキープ。最後の自由形でも首位を維持し、4分6秒05の日本新記録で見事、金メダルをつかみ取った。一方の瀬戸は途中でアメリカのチェース・ケイリシュ選手にも抜かれ、銅メダル。レース直後、「うぉーっ」と咆哮して喜びを爆発させた萩野が、結果を受けて茫然とする瀬戸のところへ泳いでいってハグするシーンは、見る者の心を揺さぶらずにはおかなかった。

「絶対に一人ではここまで来られなかった。初めて心の底から自分だけじゃない、と思いました」

「大也がいなかったら、僕は今ここにいなかった」

 レース後、そう述べた萩野。後にメディアのインタビューに語ったところによれば、彼はリオ五輪に文字通り人生を懸けていた。そこで1位になれなかった場合、「水泳をやめるしかない」と考えていたという。

「リオ五輪の前の年の6月、萩野はフランス合宿中に自転車で転倒して右ひじを骨折し、実戦への復帰まで5カ月もかかった。一方の瀬戸は、その間に行われた世界選手権で2連覇を達成し、リオ五輪内定を早々と決めていました」

 と、スポーツ紙記者が振り返る。

「萩野は瀬戸が2連覇を達成したレースの映像をしばらく見ることができなかったといいます。そんな萩野に発破をかけ続けたのが平井伯昌コーチです。平井コーチの言葉がきっかけとなってようやく瀬戸が2連覇する映像を見た萩野はそこから調子を上げ、背水の陣を敷いてリオ五輪に臨む覚悟を決めたのです」

 一方の瀬戸は、

「“リオ五輪で金を取れれば、1年くらいは水泳をやりつつ好きなことをしようかな”と言っていました」

 スポーツライターの矢内由美子氏はそう話す。

「しかし、結果は萩野が金。瀬戸は“今後の課題は全ての点”“考えが甘かった”と話していました」

 先のスポーツ紙記者も次のように語る。

「銅メダルに終わった理由について、瀬戸は後に“努力が足らなかった”と分析していました。4年前、ロンドン五輪代表になれなかった瀬戸は“オリンピックに出たい”という目標からスタートしている。しかし、高校3年の時に出場したロンドン五輪で銅メダルを取った萩野は金メダルを目標に4年間やってきた。その違いが勝敗を分けた、と考えたようです」

 リオ五輪の余韻に浸る間もなく、次の東京五輪に照準を合わせて動き始めた萩野と瀬戸。その期間にも繰り返された奇妙な因縁については後で触れるとして、ここで一旦、時計の針を巻き戻してみたい。

「努力ができる天才」

 瀬戸は埼玉県毛呂山(もろやま)町出身で1994年5月生まれ。萩野は栃木県小山市出身で同じ年の8月に生まれている。先に水泳の才能が開花したのは萩野だった。

 萩野の母親は妊娠中、マタニティスイミングに通っていた。そして、出産後もママ友に誘われる形でベビースイミングに入会。そんな母親が息子の才能を“目撃”することになったのは、萩野が2歳になったばかりの頃だった。誰も教えていないにもかかわらず、プールの横側12・5メートルを、息継ぎしながら犬かきのようなやり方で泳いでいたのだ。幼稚園年長の時に選手育成コースに入り、小学1年の時に父の転勤で愛知県に引っ越し、イトマン東海(現・イトマン春日井)に入会。小学2年の時にはジュニアオリンピックの9歳以下クラスで50メートル背泳ぎ、200メートル個人メドレーで初優勝した。

 まさしく神童だが、勉強もおろそかにしていなかったというから恐れいる。

 萩野が通っていた小学校の担任教師、菅沼克博氏が話す。

「うちの学校には自主学習という取り組みがあって、毎日自分で課題を決めて学習してもらうのですが、萩野選手は通信教育のような教材をご家庭で取っていて、それを提出していました。他の生徒と比べてもかなりの量だった。萩野選手は文武両道といった印象が強かったですね」

 一方の瀬戸は5歳の時に水泳を始めている。小学3年の時には地元の大会で1位になるなど頭角を現し始めるが、全国大会では……、

〈ビリから2番目でした。10歳年上の選手たちと競うようなレースだったので仕方ないのですが。ただ、決勝の結果を見たときにびっくりしました。上から2番目の順位に、僕と同い年の選手の名前が載っていたんですよ。

「この2位の子の年齢、間違っているよね?」と親と話していたことを覚えています。それが、萩野公介でした〉(「日経ビジネスアソシエ」18年8月号)

 その時から、萩野は瀬戸にとって「憧れの存在」になった。瀬戸の家族も萩野を「萩ちゃん」と呼び、「目標にしよう」と息子に声をかけたという。

 萩野は小学3年の時に出身地の栃木県小山市に戻り、「みゆきがはらスイミングスクール」に通うように。以来、高校3年までの間萩野を指導した前田覚氏は、

「公介はとにかく天才。水に逆らわない天性の泳ぎを持っていました。あんな小学生、それまでに見たことがなかったです」

 と、述懐する。

「技術や才能だけではなく、努力ができる天才だった。才能があっても頑張れない、コーチの言うことが聞けない子は結構います。でも公介は言うことをちゃんと聞くし、練習もきっちりこなす。僕は公介を指導することになった時、“こういう人がオリンピックに行くんだろうな”と思いました」

 萩野と瀬戸は中学1年の時、共に「ナショナル合宿」に参加している。ナショナル合宿とは、中高生のうち、各学年の標準記録を突破した選手だけが参加できる合宿のことである。

「そのナショナル合宿で初めて瀬戸選手に会いましたが、その時の瀬戸選手はまだまだ公介とは差があるな、という印象。そんなに強い選手だとは思いませんでしたね。ただ、泳ぎ方にバネがあって、素質のある選手だなとは思いました」

 前田氏はそう話す。

「瀬戸選手はいつもニコニコしていて、水泳が好きなんだなぁという雰囲気が出ていた。楽しんで泳いでいるな、と。あとは、公介よりもポジティブな発言が多かった。今回はダメだったけど次の試合は頑張ろう、といった感じで、いつも前向きでした」

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