初めて明かすプロポーズ「奥様は東京藝大生」未公開エピソード そして青髪の彼女は作家の妻となった
「手っ取り早いかなって」
だが一方で、妻は驚くべき行動力と、決断力を持っているのだ。
妻と初めて出会ったのは、九年前。当時彼女は高校生であった。
「何かお手伝いができないかと思って来ました」
真っ黒の学生服に身を包んで現れた彼女は、真っ黒の短髪で、どこか男性のような精悍さも備えていた。
「これ、私のポートフォリオです」
喫茶店に入り、スケッチブックを見せてもらう。
当時、僕は漫画家を目指して投稿を繰り返していた。僕が原作とネームを書き、友達が作画を担当していたのだが、その友達は就職に伴い、いったん活動を休止することに。そんな時、新しい作画担当候補として紹介してもらったのが、妻であった。
「うわあ、上手ですね……」
ページをめくっていくと、次々に石膏像のデッサンが現れる。それは見事なものだったが、少し困っていた。僕が描いていた漫画は、シュールなギャグ漫画である。果たして絵の方向性が合うだろうか。
「芸術系の高校に行かれてるんですか?」
「はい! 藝大を目指してるので、予備校にも行ってます」
「藝大って、東京藝術大学?」
「そうです」
芸術系の大学としては、国内最高峰である。単純に比較はできないものの、考え方によっては東大よりも狭き門だということは知っていた。
「それじゃ、漫画なんて描いてる場合じゃないのでは。まずは頑張って受験勉強した方がいいですよ」
彼女は素直に頷いた。
「確かに!」
「合格して、まだ僕とやる気があったら、連絡してください。その時もう一度相談しましょう」
「わかりました」
その時は一緒にお茶だけ飲んで、そこで別れた。
そして二年後。彼女は再び現れた。
東京藝術大学、彫刻科の一年生として。
「合格してきました!」
「凄いね」
やはり喫茶店で、僕たちは向かい合った。
「はい。頑張りました」
「いや、合格したのもそうだけど……その髪の色」
「あ、はい」
彼女は自分の頭に手をやって、撫でた。たとえるなら、青いマーブル模様のビー玉。ソーダ水のような明るい青色は、あたりの注目を引いている。
「どうしてその色に染めたの」
そう聞くと、しばらく考え込んでから、こう答えた。
「せっかくなんで。へへへ」
大学では、飴玉というあだ名を貰ったらしい。
それから相談して、やはりこの絵柄でシュールギャグ漫画は難しいだろう、という結論に至った。だが、せっかく来てもらったのに悪いので、合格祝いとして焼肉を奢らせてもらった。彼女としては、結局何も手伝えないのに焼肉だけ食べるのも悪いと思ったらしい。
なぜか後日僕の家にやってきて、確定申告のレシート整理を手伝ってくれたのだ。
そしてその夜、衝撃の展開が僕を襲った。
「良かったら、結婚してください」
「なんで?」
まさかの飴玉さんからのプロポーズであった。
「実は、前から小説読んでまして……」
「そうなんだ、ありがとう」
「この作家さんは、一生追いかけ続けたいって思ったんですね」
「光栄だなあ」
「でも私、忘れっぽいんですよ。忙しくなったら、絶対忘れちゃうと思うんです。そしていつのまにか、新刊が出たのにも気づかなくなって、そのまま放置しちゃうって思って。それは嫌なんです。で、思いつきました。結婚するのが手っ取り早いかなって」
「なんで?」
「絶対忘れないから……」
何を言っているのかよくわからないのだが、彼女の瞳は真剣だった。となれば、笑って誤魔化すのも失礼である。
「でも、お互いのことをまだ全然知らないでしょう」
「確かに」
「まずはお付き合いから、ってことでいいですか」
「いいです。わーい」
それが妻とのなれそめである。嘘みたいな本当の話である。それから一年後には結婚。だから学生結婚である。そしてさらに、一年半後には息子が生まれた。
藝大の卒業制作に、妻は息子の石膏像を作り。
卒業式と謝恩会には、息子と一緒に出席している。
「腹、据わってるんだ。知らなかったな……」
今、僕は夫であり、父でもあるわけだが、これは全て妻のおかげである。何でも言語化して納得したい僕としては、「結婚とは何なのか、何のためにするのか」「親になるとはどういうことか、何をもってそう呼ぶのか」など、考え始めたら止まらない。いずれもそう簡単には答えは出ないわけで、つまりいつまでも決断できないのである。
そこを妻が、未知の理屈で飛び込んできて、何だかよくわからないうちに押し切られてしまう。
全くの考えなしであれば僕も反論するのだが、妻は深い覚悟も併せ持っているのだ。
「作家と結婚するなんて、生活が不安じゃなかったの」
そう聞いてみたことがある。妻はこくりと頷いて答えた。
「最初はもっと、大変かと思っとった。お金がなくて常に一家心中とのせめぎ合いで、畳食ってるとかを想像してた。あとは浮気問題とか、精神病んじゃうのを支えるとか、消息不明になったのを探したりとかすると思ってた」
「畳って美味いのかな」
「まずいと思う、でも食べられると思う。たぶん煮るんじゃないかな……めんつゆとかで。でも、めんつゆ買うお金あるなら、畳食わなくてもいいのかな……」
「しかし、そんなのを想像してたのに、よく結婚したね」
「そうね。最初に会った時にたぶん、大丈夫かなと思ったのと。いざって時は私が働くつもりだったし」
惚れそう。
物凄くタフな人にも思えるのだが、本人は「楽したいだけ」だと言う。
「結婚しちゃえば、新刊情報を追いかけなくても、新刊が出る時にわかるし、楽」
「あ、それってやっぱり本気で言ってたの? 照れ隠しとかじゃなくて」
「うん」
真顔で頷く。
「どうもわからないなあ……やってることの大変さと、見合わないような気がする」
「藝大を目指したのも、楽な方に流れただけだよ。勉強も運動も疲れるから、あんまり好きじゃなかった。絵描いたり物作るのは疲れないから、それでも目指せる大学があるって聞いて、これだ! ってなった」
「でも、一年浪人までして勉強してるでしょう。辛くなかったの」
「うーん。自分、下手だなって思うのは辛かったけど。作ったりするのは、平気やった」
「じゃあ、結婚は。学生結婚への不安とかはなかったの」
「特にないよ。どうせいつかは結婚するつもりだったから、早く済ませちゃいたかった。あなたと結婚できなかったら、婚活サイトに登録しようと思ってたもん。ほら、宿題とかも、早く終わらせた方が得でしょ」
「そうかなあ。ご両親は反対しなかったんだっけ?」
「『結婚を考えています』と言ったら『ええやん、ええやん』って。あっさりしてた。妹は『へー』って言ってた」
「学生出産については?」
「子供は欲しかったし、どうせ作るなら早い方が楽かなと思って。ほら、学生の方が、夏休みとか長いし」
「……ご両親の反応は」
「『赤ちゃんできた』って言ったら、『おー。やったね』って。だから『いえい』って言った」
「……」
「へへっ」
「自信がなくなったり、することはないの」
「え、いっぱいあるよ」
ゆっくりと考えながら、妻は教えてくれる。
「藝大に合格したときも、結婚したときも、親になったときも、自分でいいのかな、自分なんかで大丈夫なのかな、っていうのは心のどこかでいつも思ってた。でも、ダメだったら退学させられるとか、離婚を突きつけられるとか、何かしらするだろうし。そうならないってことは、どうやらいいらしい……と。悪いことは、それが起きたときに考えようって思ってる」
「腹、据わってるね」
「腹、据わってるんだ。知らなかったな……」
ぽかんと口を開けている妻。彼女を眺めて、僕もぽかんとしてしまう。
やっぱり、わからない。何なんだろう、この人は。価値観が違うといえばそれまでだが、僕はそこを言語化したいのである。
いつかこの人の謎が解ける日は来るのでしょうか。
来ると信じて、僕は今日もメモを取っているのです。
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