歴代指導者が語る「阿部一二三・詩」意外な過去 「詩はお兄ちゃんと違い柔道が嫌いだった」
階級へのこだわり
もう一人、小・中学校時代の兄妹を指導したのが、夙川学院(現・夙川)を全国屈指の強豪に育て上げた名伯楽、同校の松本純一郎前監督である。
とりわけ一二三の変則的な背負い投げ、詩の袖釣り込み腰を、伝家の宝刀にまで磨き上げた人物とされる。
昨年10月、長野県の佐久長聖高校に赴任したばかりの松本氏は、脳梗塞に倒れ、今も病床にあるという。
現在、松本氏に代わって佐久長聖の柔道部を指導するのは、やはり夙川でコーチを務めていた垣田恵佑氏だ。大学院生だったころから夙川で指導を始め、詩が中学に進学するタイミングで非常勤講師として同校に勤務した。
詩が小学生だった頃から詩の投げ込みのパートナーを務めてきた垣田氏は、これまで誰より詩に投げられた柔道家だろう。
「それは間違いありませんね(笑)。彼女の強さは、体幹の強さだけじゃなく、異常な一瞬の瞬発力とバネにある。相手の脇が空いたら、瞬時に袖を掴んで袖釣り込み腰に入り投げてしまう爆発力。女子では目で追えない動きですし、相手からしたら、意識の外から技に入られるから対応できない」
これまで詩は、世界選手権の18年バクー大会と19年の東京大会で世界一に輝いている。その際に垣田氏は帯同し、ライバル選手の柔道の真似をして対策を共に練りあげた。
「東京五輪でも練習パートナーを依頼されていたんですが、コロナの影響でどうなるかまだわかりません」
垣田氏の詩の少女時代に対する印象は、「天真爛漫」と話した高田氏とは少し異なる。
「柔道が大好きなお兄ちゃんと違って、嫌いだったんじゃないですかね。道場に入りたくないと、車のシートにしがみついて離れない時もあった」
詩が真剣に柔道と向き合うきっかけは、兄の全中優勝だったと垣田氏は話す。
さらに一二三が講道館杯を制し、リオを目指していた頃、詩は中学3年間で3年連続全中に出場し、3年時に念願の日本一に。体の成長と共に階級を上げた兄とは違い、詩は中1から52キロ級を主戦場としてきた。
「当時は、47キロぐらいの体重で、52キロ級に出場していた。松本先生も私も、48キロ級を薦めるんですが、本人には強いこだわりがあった。理由はわかりませんが」
もしかしたら、兄と同じ日に五輪に出場する──その夢をこの頃から抱いていたのかもしれない。
兄の背中を追う中で、詩に挫折がなかったわけではない。高1だった16年夏。前年の全中の圧勝によってインターハイも優勝が期待された詩は、初戦で体がまったく動かず、最後は河津掛けという禁止技を出してしまって反則負けを喫する。
「周囲の期待に応えないといけないという重圧で体が動かない。負けたあと、立ち上がれないぐらいに泣いて、後日の練習でも身が入らず、フニャフニャになりながら泣いていた。そういう脆(もろ)さも詩にはあったんです。だけど、次の試合では払拭して、強さを見せた。そういうところは凄い子だなと思います」
また、対外国人には安定した戦いを続けた詩も、国内のライバル・角田夏実の寝技、とりわけ関節技を苦手とし、3敗も喫している。
「中学まで詩は寝技ができなかった。高校生となり、角田選手に敗れることもあって、松本先生が1年生の終わりに長崎明誠高校に詩を1週間、預けたんです。同校は寝技に関しては無類の強さを誇り、詩といえども簡単に抑え込まれ、関節を極められるんです。それを機に寝技への意識が高まり、苦手意識も消えていったと思います」
アニキの言うことなら…
高2で講道館杯を制した一二三の元には、数多(あまた)の強豪大学が勧誘に訪れたというが、進学先は頻繁に出稽古に訪れていた天理大学が有力視されていた。だが、「環境を変えて、東京でゼロから大学生活をスタートさせたい」という一二三は、東京の日体大を選択する。
同大の山本総監督は、足繁く関西に足を運び一二三を日体大に導こうとした。
「私が一二三に伝えたのは情熱だけです。理事長、学長を含め、大学と柔道部が一致団結して、阿部一二三の強化体制を敷いて金メダルを獲れる環境を作る。あれだけの人材はなかなかいない。勝って当たり前、負けたら強化体制の責任を問われる。ですが、それだけの魅力が一二三にはあった。それは3年後に入学してきた詩にも言えることです。詩が出稽古を希望すれば、われわれも帯同して付いていく。日体大の女子はさほど強くない。詩を特別扱いできる環境もありました」
一二三は大学2年生だった17年に初めて世界選手権に出場し、世界一に。翌18年大会は連覇を詩との兄妹Vで飾った。常に一二三が先を歩み、詩がその後についていく。いつしかふたりは柔道界の顔となっていた。
「一二三の稽古は短期集中。とにかく強い相手とばかり組み合って、適度に抜くところは抜く。一方の詩は、練習時間の2時間を、最初から最後まで全力でぶつかっていく。見ていてケガが心配なのは、詩の方でした。ご両親や私らがいくら言っても聞かないのに、詩はアニキの言うことなら何でも素直に耳を傾ける。一二三から休養することの重要性を教わって、素直に従うようになりました」
しかし、19年にはその兄に思わぬ暗雲が漂い始める。東京五輪への代表レースを独走していた一二三を猛追するライバルが現れたのだ。丸山城志郎だ。バルセロナ五輪65キロ級に出場した父を持つ丸山は、同年の選抜体重別で阿部を破り、世界選手権にはふたりが出場することに。日本武道館で開催された世界選手権でも丸山が勝利し、立場は逆転する。山本氏によると、大きなケガなく成長してきた一二三が、肋軟骨や足首のケガに見舞われた一年でもあった。東京五輪を前に20年2月、男女の全14階級のうち、詩を含めて13階級で代表が内定する中、男子66キロ級だけが実力伯仲のために決まらず、同年12月13日、柔道界としては異例の一騎打ちとなる代表決定戦が講道館で行われた。
一二三と丸山は、自粛期間も経ながら、決戦の日まで胃がヒリヒリとする長い時間を過ごした。山本氏が振り返る。
「道場を貸し切って練習するなどして、コロナ対策を行った上で練習を重ねました。ケガが治り、コンディションが万全なら負けることはない。信じていました」
丸山との一騎打ちは、24分におよぶ死闘となり、一二三が大内刈りを繰り出し、それを丸山が返そうと試みる。先に畳に背をつけた丸山が敗者となり、一二三が代表に決まった。
「今だから言えることですが、東京五輪で金メダルを獲るためには、必要なことだったのかもしません」
「一二三」の名は、一歩一歩、成長してほしいという両親の願いが込められている。しかし、こと柔道に関しては、17歳のあの日から、五輪への階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。少し遅れて詩も、二段飛ばしで世界の柔道家に成長した。
東京五輪では女子の決勝が先に行われる。詩がまず金を、続いて一二三も──。兄妹同日Vが成就すれば、五輪史に残る偉業となる。