あなたはまだ菅原文太を知らない 「檄文」と決定版伝記から実像に迫る

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映画「仁義なき戦い」の始まり

 文は人なり。文章には書き手の価値観や人柄が隠しようもなくあらわれる。「男が惚れる男」菅原文太の場合はどうだったか。「週刊新潮」の創刊50周年に際して、彼が寄稿した文章を全文紹介しよう。

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 今から三十数年前、昭和47年(1972)のことだった、と俺の白髪頭のボケた脳ミソは記憶している。茶色くなって擦り切れかけた話をすることになるが、今は廃刊になった「週刊サンケイ」を東京駅で買い、京都行きの新幹線に乗り込んだ。その表紙だったか目次だったか、「仁義なき戦い」連載第1回という大きな文字が目に飛び込んだ。実に映画的なそのタイトルは、硝煙の匂いがした。読み込んでいくうちに、これこそ俺の映画だという興奮がこみ上げ、いつもは速い新幹線のスピードさえ遅く感じられた。撮影所に着くのももどかしく、近所の雀荘で卓を囲んでいた俊藤浩滋プロデューサーのところへ飛んで行った。

「俊藤さん、これを読んでおいて下さい」

「よっしゃ、ポン! そこへ置いていけや」

 そのやり取りが映画「仁義なき戦い」の始まりだった。以来、二匹目のドジョウ探しという訳ではないが、週刊誌とセンベイ、時に焼酎は旅の道連れだ。

 同じ頃「週刊新潮」に、戦後28年たってグアムで発見され帰国した旧日本兵横井庄一さんの語録が掲載されていた。「陛下様に小銃をお返しする」ために戻って来たという横井さんの言葉が、俺が七つか八つの子供の頃、宮城県の田舎で日の丸の旗を振って見送り、多くは死んで帰らなかった何人もの兵隊たちの声に重なった。ジャングルで眠っている兵隊たちに代わって、彼らの小銃もまた返そうと横井さんは思ったのだろうか。映画の中でピストルを持って立っている自分の姿に、薄ら寒い思いがした。

 産地新宿神楽坂、蔵元新潮社の芋焼酎「週刊新潮」は戦後社会の上から下、右から左まで人々の浮き沈みを甕に沈めて熟成させ安価で売ってきたのだ。今さら、一握りの権力者の肥えた舌を喜ばすヴィンテージワインになっていいわけがない。いつまでも安くて旨い焼酎で通してくれ。皆の旅の道連れなのだから。

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「虚」の世界を生き切った男の多面的な実像

 書き手の人間性を感じさせる味のある文章だが、その15年後に刊行された決定版伝記『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子・著)とあわせて読むと、より味わいが深くなるかもしれない。そこには、たとえば「仁義なき戦い 完結篇」の脚本も手掛けた脚本家の高田宏治の証言が記されている。

「大阪の街を2人で歩いているときに、若いチンピラみたいなのが『おう文ちゃん』と声をかけてきたら、『おう』と手を挙げて応えて、相手が『さばけてまんな』と言うようなくだけた雰囲気は持っていましたね」

 わけへだてのない一視同仁の人、菅原文太。と言いたくなるが、この男の実像はそんな単純な決めつけを許さない。親交のあった俳優、映画監督、プロデューサー、付き人、晩年の友人たち……松田が粘り強く集めた証言から浮かび上がるのは、「虚」の世界を生き切った男の多面的な実像だ。あなたの知らない菅原文太が活字の向こうからニヤリと笑いかけてくるだろう。

デイリー新潮編集部

2021年7月20日掲載

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