裸足で五輪を獲った「アベベ・ビキラ」伝説 アフリカ選手初の金メダルの裏側(小林信也)

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“裸足の王者”アベベ・ビキラは、シューズを履いて1964年東京五輪のマラソンを走った。

 細身の褐色。やや下向きの視線。求道者のように変わらない厳しい表情。淡々と走る姿は、雪国に生まれ育った、当時小学校2年生の私には理解できない、新しい驚きに満ちていた。

 20キロ付近から独走態勢に入り、そのままゴールテープを切った。ローマ五輪に続く2連覇達成。だが、想像を超える衝撃はゴール後にあった。そのまま20メートルほど走ってフィールドに入ったアベベは、芝生の上でテンポよく整理体操を始めた。前屈し、両腕を回し、芝に仰向けになって両足をグルグル回した。気持ちよさそうに全身をほぐす姿に度肝を抜かれた。42・195キロを走破すれば消耗し、疲労困憊するだろうという思い込みを打ち砕かれた。私にとってはそれが初めて出会った「世界」という常識を超えるレベルだった。同じように多くの日本人が驚愕し、動揺させられた。

 その後しばらく、子どもたちは学校で東京五輪ごっこに興じ、ヒーローたちの物真似を競った。アベベといえば、無表情で両手を上げゴールテープを切った後すぐ淡々と整理体操する一連の動作が定番だった。

母国とローマ五輪の因縁

 世界がアベベに衝撃を受けた最初はその4年前、60年のローマ五輪だった。

 アベベは32年8月7日、エチオピアのジャットという村で生まれたと伝えられている。奇しくもこの日、ロサンゼルス五輪のマラソンが行われていた。

 エチオピアは、列強の植民地支配に抵抗し、アフリカで独立を守り続けた唯一の国だった。しかし、アベベが生まれた3年後、イタリアがエチオピアを侵略した。ムッソリーニの命を受けた軍隊が毒ガスを撒き散らし、幼いアベベら村人をさらに人里離れた地に追いやった。アベベにとって、ローマは因縁の地だった。

 それまでマラソンは、大会の中盤に行われていた。ところが、ローマ五輪では最終日に設定され、マラソンがフィナーレを飾る演出に変わっていた。

 優勝候補の筆頭は、ソ連のセルゲイ・ポポフ。58年、ストックホルムで開かれたヨーロッパ選手権で優勝した時の記録、2時間15分17秒は「空前の世界記録」と人々を驚かせた。

 ライバルはモロッコのラジ・ベン・アブデセラム。それまでフランス代表としてレースに出ていたラジが、祖国独立に伴って初めてモロッコの国旗を胸に走るオリンピックだった。

 各国の記者たちが上位20位くらいまでの予想を立てていたが、その中にアベベの名前はなかった。

 エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエの親衛隊兵士だったアベベは、最終選考会で2時間21分23秒の記録をマークしている。ポポフには及ばないものの、十分に注目に値する記録だが、欧米の記者たちは「ストップウォッチが壊れていたのだろう」と一蹴し、アベベを認めなかった。

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