渋沢栄一とビール 「キリン」「サッポロ」で果たした重要な役割 飛鳥山邸での要人接待
NHK大河ドラマ『青天を衝け』で何かと話題の渋沢栄一。じつに500社以上の会社の創業や運営に携わったことは知られているが、日本のビール会社の黎明期にも深く関わっていたという。
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渋沢の功績として、有名なのは1873(明治6)年、日本最初の銀行となった第一国立銀行(現・みずほ銀行)の創業を担い、総監役に就任したことだ。同じ年には、瓦斯掛(現・東京ガス)の委員となりガス事業を計画。1876(明治9)年には秀英舎(現・大日本印刷)を創業、中外物価新報(現・日本経済新聞)の創刊を支援した。
さらに、東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)、日本鉄道会社(現・東日本旅客鉄道)、東京電灯会社(現・東京電力ホールディングス)、東京ホテル(現・帝国ホテル)、東京貯蓄銀行(現・りそな銀行)など、500社以上の創業に関わった。
経営学者のピーター・ドラッカーは、「20世紀に日本が経済大国となったのは、渋沢の業績によるところが大きい」とし、「彼の偉業はロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーを凌ぐ」と高く評価している。そんな渋沢は、日本のビール会社の黎明期に深く関わっていた。
キリンビールの前身会社に出資
日本でビールの醸造が始まったのは1870(明治3)年。アメリカ人のW・コープランドが横浜の山の手に「スプリング・バレー・ブルワリー」を開設した。1884(明治17)年にこのブルワリーが閉鎖されると、その後を引き継いで「ジャパン・ブルワリー・コンパニー」(注・後のキリンビール)が設立された。
キリン歴史ミュージアムのホームページには、その経緯が記載されている。以下はその抜粋である。
《キリンビールの前身であるジャパン・ブルワリーは横浜・山手の在留外国人らによって、外資系の会社として1885(明治18)年に設立しました。当初、日本人株主は三菱社社長の岩崎彌之助のみでした。翌1886(明治19)年に資本金を増資することとなり、渋沢栄一をはじめとする日本人実業家たちが名を連ねることになります。渋沢栄一は1889(明治22)年7月に非常勤取締役に就任、1889年9月4日の重役会議事録にはサインを残しています。》
ジャパン・ブルワリーは1888(明治21)年、明治屋を総代理店として初のビール「麒麟麦酒」の販売を始めた。
一方、札幌には明治政府によって1876(明治9)年、「開拓使麦酒醸造所」が開設された。この醸造所は1886(明治19)年、北海道庁の所管になり(北海道庁札幌麦酒醸造所)、同年に大倉組に払い下げられた(大倉組札幌麦酒醸造所)。これを継承したのが渋沢である。
サッポロビールのホームページによると、
《道庁から札幌麦酒醸造所の払下げを受けたのが大倉喜八郎でした。大倉は二度の洋行で西欧のビール事業を実見した経験がありました。1886(明治19)年11月、官営ビール事業は民営化され「大倉組札幌麦酒醸造所」として新たなスタートをきりました。しかし翌年、大倉は醸造所を政財界に多大な影響力を持つ渋沢栄一、浅野総一郎らに事業を譲渡してしまいます。大倉はビール事業をより確実なものにしたいと考えたようです。1887年12月、大倉自らも経営に参画し、新会社「札幌麦酒会社」が設立。渋沢らの加入により、大きく飛躍する基礎が確立したといえます。》
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