「クリスチャン婚活」から見えてきた世界の結婚観の一断面
結婚相手を探すためのオンラインサービスは、「マッチング・サービス」「デーティング・サービス」と呼ばれている。日本ではエウレカ社の提供する「ペアーズ」が最大手だ。かつては「出会い系」などと揶揄まじりの扱いを受けるビジネスだったが、若者間での抵抗感が薄くなるにつれ利用が拡大した。サイバーエージェントの調査によれば、市場規模は600億円を突破し、2023年には1,000億円、2026年には1,600億を超えると予測される「成長産業」である。世界規模でいえば、エウレカ社の親会社である米Match Group社の提供する「Tinder」などがよく利用されている。
ここで筆者の属性を明かしておこう。京都大学大学院後期博士課程を満期退学し、現在はキリスト教学に関する博士論文を執筆中の独身中年男性である。いわゆる「高学歴ワーキングプア」だ。複数の非正規雇用の仕事をかけもちしながら辛うじて生活している。
そんな筆者だが、遡ること4年前の6月、天啓のごとく「婚活せねば!」と思い立った。統計の問題として、母数の大きいグローバルな市場に投入されれば、地球上の何人かは目にとめてくれるのではないか――水の上にパンを投げよ――賢者ソロモン王の語録にある通りだ(コレヘト書11章)。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、いざ尋常に勝負である。
とはいえ、いざ「グローバル婚活」を始めようにも、何から始めればいいかよくわからない。そこで、まずは英語でクリスチャン専用の婚活サービス「Christian Mingle」「Christian Cafe」など、検索上位に来るマッチング・サービスに片っ端から登録したのである。
「入力必須」だけでも十数項目
婚活開始にあたり、まず驚いたのは登録項目の多さだ。基礎情報として入力必須の内容だけでも十数項目ある。たとえば、子どもの有無、一人暮らしか否か、喫煙・飲酒の頻度、身長、体形、民族、学歴、職業といった一般の婚活サービスによくある項目に加え、未婚か再婚か(キリスト教では正当な理由なくしての離婚は罪となる)、信仰を持った教派、現在出席している教派、教会への出席頻度、一緒に祈る友人が欲しいだけなのか、または真剣に結婚相手を探しているのかなどと続く。
さらに以下のような信仰に関わる質問が補足事項として聞かれている。
• 同性愛は罪ですか?
• 女性のためにドアを開け、荷物を運ぶ男性についてどう思いますか?
• 周囲に信仰を表明していますか?
• 男性が家の主であるべきだと思いますか。
• あなたは信頼し過ぎ/疑い過ぎのどちらですか?
• 飲酒についてどう思いますか?
• 結婚するまでセックスを控えますか?
• 教会で何か役割を担っていますか?
登録した翌朝、さっそくスマホに3件もの通知が届いた。3人もの女性が筆者に関心を持ったのだ。さすがはグローバル市場である。期待しながらサイトを開いて見てみると、それはケニアのナイロビ在住の女性だった。「ケニアの女性」との結婚など考えたこともないので大変驚いた。
その後も、数カ月に一度くらい、フィリピンやインドネシア、カザフスタン、エジプト、エルサルバドル、アメリカ、インド、ペルー、マダガスカル、イギリスと、世界各地の女性との二言三言の挨拶や多少のチャットが続いた。「一度、最寄駅で会いましょう」と言われたこともある。結果、待つこと1時間、指定された場所で立ちすくむ破目になった。
また別のある日、再び通知が鳴った。筆者はアフリカでは大人気なようで、ザンビア、モザンビーク、南アフリカなどから興味や好意を意味する「ウィンク」やチャットが飛んで来ていた。もはやアフリカへの移住も考えねばなるまい、と思い始めていたが、よく聞いてみると、色が薄く金を持っていれば、誰でもよいのだという。アジア人は「名誉白人」なのだ。
女神のように美しく聡明なインド女性が連絡をくれたこともあった。修士号を持ち、編集の仕事をしている女性だった。わりと会話も続いたので、これはもはやインドへの移住をも考えねばなるまい、と思っていた矢先に、彼女から「ぜひこれを読んでほしい」と課題図書を言いつけられた。読むのが面倒でしばらく返信に困り放置していたら「もう連絡しないから」とチャットが来た。
そんなわけで筆者は未だ独身である。
モルモン教から地球平面論者まで「専用サービス」
ところで、キリスト教だけではなく、世界には特定宗教の信者専用のマッチング・サービスが存在する。
たとえば日常的に豚肉を食べる人は、ムスリムとの結婚は難しいだろう。同様に、飲酒、喫煙、婚前交渉と様々な生活の仕方が、信仰を持つ人々にとって結婚の際、問題となる。だから「信者専用マッチング・サービス」は、プロフィール作成時にさまざまな質問に回答させ、マッチングの効率を高めようとするのだ。
一般に世界には4つの大きな「宗教」が存在する。キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、無神論/無宗教だ。それぞれに信者は億単位で存在するから、当然ながら特化したマッチング・サービス、デーティング・サービスがあるのだ。
たとえば、ムスリムのマッチング・サイトのユーザーを覗いてみると、男性はヒゲをたくわえており、女性はブルカなどを着けている。欧州や北米在住のムスリムの間では、わりと頻繁に利用されているようだ。
再びキリスト教に目を転じれば、福音派専用、末日聖徒イエス・キリスト教会(いわゆるモルモン教、現在160の国と地域で活動中、信徒数1,600万人超の団体)専用、セブンスデー・アドベンチスト(現在235の国と地域で活動中、信徒数2,000万人超の団体)専用のマッチング・サービスもある。もちろんユダヤ人向けのものもある。珍しいもので言えば、Netflixで公開されて話題になった「地球平面論者(Flat Earthers)」専用のマッチング・サービスも利用されている。
言いかえれば、これら「宗教マッチング」または「信者専用出会い系サービス」の存在は、市場となるに足る巨大な需要を示している。結婚も宗教も、多かれ少なかれ人が必ず直面する事柄だからだ。
そうした世界に比べれば、日本では結婚にあたって「宗教」が、そこまで大きな問題とならない。しかし想像してほしい。たとえば、娘が婚約者を家に連れてきて、その男がオウム真理教の信者であったなら、どうだろうか。極端な例話だが、海外では似たような形で宗教と結婚が問題になる。それゆえ、最初から信念/信仰(faith)を表明した上でのマッチング・サービスにニーズがあるのだ。
アメリカにおける宗教の側からの見解を見てみよう。今から10年前の2011年、米福音派の有力紙『クリスチャニティ・トゥデイ』が「クリスチャン専用オンライン・デート?」という特集を組んでいる。また2014年には、著名牧師ジョン・パイパー氏が「キリスト教徒のオンライン・デートの是非を問う」と題した記事において「出会いの方法ではなく、誰と結婚するかが問題だ」として、オンラインでの婚活に対する肯定的な評価を与えている。
2016年の夏には、アメリカの保守的なキリスト教会の連合団体NAE(アメリカ福音同盟)が、信者における出会い系サービスの使用率について調査している。結果、回答者の6割はクリスチャン専用の出会いサービスを利用し、9割以上が「試した人を知っている」とし、約8%が配偶者と出会い成婚したという。
可視化される「宗教の持つ結婚観」
いまやインターネット利用人口は、どの宗教人口よりも多い。約23億人のキリスト教徒よりも多いのだ。日々スマホを指でなぞる世界中の老若男女にとって、配偶者や家庭形成への欲求は死活問題であり、人生の質の問題でもある。したがって宗教を問わず、オンラインでの婚活の需要は大きいが、それゆえ宗教を問わずにはいられない世情が見えてくる。なぜなら、それぞれの宗教における結婚観には、具体的な男女理解、性差と社会的機能が表れているからだ。
たとえば、キリスト教の結婚式では「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである」という聖書の一節が朗読される。敢えて誰もツッコミを入れないが、女性が人生でもっとも華美に着飾っている瞬間に、なぜだろうか。
またユダヤ教では配偶者に関して「艶やかさは偽りであり、美しさは束の間である、しかし主を恐れる女は誉めたたえられる」という教えがある。今風に解釈すれば、男女問わず、力と気品を身にまとい、神を恐れる者こそ、結婚相手にふさわしいということか。
このように「宗教のもつ結婚観」は、ときに近代的価値観とは大きく異なっている。つまり「宗教マッチング」における事細かな質問は、マッチングの効率化だけでなく、より幸福な結婚を目指すための方法なのである。言い換えれば、宗教マッチング・サービスにおいては、多様な価値観とライフ・スタイルを適切に可視化し、ネットワーク化することこそが、その事業の公共的価値として機能している。
「アブラハムの宗教」の結婚観
いわゆる「アブラハムの宗教」(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は、人間の孤独という大前提を踏まえてなお、「人が一人でいるのはよくない」という創世記の言葉を受け入れる。なぜなら多くの人々が幸せに生活していくために、また生存し、繁殖するために結婚は善いものとして神から与えられているからだ。孤独を受容できた大人同士の結婚は厳粛な契約の生活共同体を築くものなのだ。ちなみにキリスト教は独身を否定しているわけではない。教皇や総主教は独身である。
このように異なる宗教と結婚を生きる人々の生活常識と倫理(エートス)が、宗教/婚活/インターネット技術の交錯する地点から垣間見えている。多様な宗教観と結婚観は国際常識、教養として踏まえておくべきだろう。