100歳の現役ピアニスト「室井摩耶子さん」 練習は1日4時間 楽しく生きるコツは?
国内最高齢のピアニストとして活動する室井摩耶子さんが、4月7日、百寿を祝う「第509回日経ミューズサロン 室井摩耶子百寿記念スペシャル・コンサート」(東京・日経ホール)を開催し、2公演で4曲を披露した。4月18日に100歳を迎えた現在もピアノを弾き続け、8枚のCDが発売中だ。2012年、91歳のときに「第22回新日鉄音楽賞・特別賞」を、19年には「文化庁長官表彰」を受けるなど、その実績は高く評価されている。室井さんに音楽活動の原動力や、楽しく豊かに生きる秘訣、そしてピアノとともに歩んだ94年間を振り返っていただいた。
コンサート会場が遺体置き場に
1921年(大正10年)に生まれた室井さんは、成城小学校(現・成城学園初等学校)に入学したのを機に、6歳でピアノを始めた。「全人教育」という教育理念のもとに設立された成城小では、画一的で詰め込み型の受験教育ではなく、宗教・芸術・道徳・哲学・労作教育を柱に、調和のとれた人格を育む教育が行われていた。
「成城小学校の音楽の授業では、国定教科書ではなく、シューベルトやブラームスといったものを教材として使っていたの。ヨーロッパに留学した経験を持つ先生は、とても自由な考えを持っていて、音楽に合わせて身体を動かすリトミックを授業で取り入れたりしていました。今思えば、幼いころの教育環境は非常に恵まれていましたね」
自由かつ芸術を重んじる成城小の校風は、後のピアニスト人生を支える礎となった。その小学校の音楽の先生に勧められて、4年生のときに東京音楽学校の教授をしていた高折宮次に師事し、室井さんは本格的にピアノの道を歩み始める。その後、1941年には東京音楽学校(現・東京藝術大学)を首席で卒業。45年1月、日本交響楽団(現・NHK交響楽団)のソリストとしてプロデビューを果たした。日比谷公会堂で開催されたデビューコンサートは、戦時中にもかかわらず大盛況となり、3日間すべてが満席だった。
「連日満席となったのは、みんな音楽に飢えていたのだと思います。しかし、コンサートの直後に空襲があり、会場だった日比谷公会堂は遺体置き場になってしまいました。
戦争が終わり、その後リサイタルを何度も重ねて好評も得ましたが、自分には“何かが足りない”という思いがずっとありました。どうしてもその“何か”がわからず、このときはピアノを止めようと思うくらい追い詰められていたんです」
「現代音楽の室井」と注目
音楽の本質は何かと自分自身に問い、モーツァルトやベートーヴェンは日本人には理解できないのではないかと思い悩んだ室井さんは、コンサートではクラシックを避け、ポール・デュカスやエリック・サティといった現代音楽を数多く演奏した。「現代音楽の室井」と注目されるようになった1955年、「ここに泉あり」(監督:今井正、主演:岸恵子)という大ヒット映画に、指揮者の山田耕筰とともにピアニストの本人役で出演する。34歳のときだった。ピアニストとして一世を風靡したが、それでも、何かが足りないという思いを拭い去ることができず、ヨーロッパで音楽の本質を掴みたいという思いはより一層強くなっていった。
そんな中、1956年にウィーンで開催された「モーツァルト生誕200年記念祭」に日本代表として派遣された。同年、第1回ドイツ政府給費留学生にも推挙され、ベルリン音楽大学に留学することになる。
室井さんがドイツで師事したケンプ教授は、若くて優秀なピアニストを世界中から呼び寄せ、ベートーヴェンのゼミを開講した。ゼミの修了時、教授の勧めでベートーヴェンのソナタ4曲を弾くリサイタルを開催し、これが思いの外好評だった。そのリサイタルをきっかけにその後20年にわたり、ドイツを拠点に海外13カ国で演奏活動を行うようになった。1964年には、ドイツで出版された『世界150人のピアニスト』に選出され、世界的なピアニストとしての地位も築いた。当時は日本でもコンサートを度々開催しており、高松宮殿下が室井さんのファンで、コンサート会場に毎回訪れたという逸話もあるほどだ。
「ドイツにいざ行ってみたら、20年も向こうで過ごすことになってしまいました(笑)。
ドイツ人は、私はこう思う、私はこうしたい、私はこう感じるということ、私というものをとても強く持っていて、とても大事にしているんです。それは、音楽をするということについても全く同じなのです。私は20年かけて、『音楽語(音楽で物を言うということ)』を見つけることができました」
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