黒田博樹の父は南海3連覇に貢献…意外に多い「親子二代」プロ野球選手
西武、巨人などで活躍した清原和博氏の長男で、今春、慶大野球部に入部した清原正吾がフレッシュトーナメント(新人戦)で神宮デビューをはたし、注目を集めた。“清原ジュニア”が将来プロ野球選手になれるかどうかは、中学、高校時代に野球から離れていたブランクもあり、現時点では厳しいと言わざるを得ないとはいえ、今後の活躍次第では、親子二代のプロ野球選手誕生へ夢が膨らむ。
親子二代といえば、長嶋茂雄&一茂、野村克也&克則の2組を真っ先に思い浮かべるファンも多いはずだ。しかし、長嶋一茂はヤクルト、巨人の実働7年間で通算打率.210、18本塁打、野村克則(カツノリ)もヤクルト、阪神、巨人、楽天の実働8年間で通算打率.185、4本塁打に終わった。どちらも輝かしい足跡を残した偉大な父の存在を差し引いても、プロ野球選手として成功したとは言い難い。
50歳のときの子ども
日本では、米球界のボビー&バリー・ボンズ親子のように、親子二代でスター選手になった例こそまだない。だが、「親子揃って1軍のレギュラークラス」という基準で最も成功したと言えるのが、黒田一博(南海→高橋→大映)&博樹(広島→ドジャース→ヤンキース→広島)である。
父・一博は、主に外野手として南海時代の1950~53年と高橋・トンボ時代の54、55年にレギュラーで活躍。3番、または6番打者として51年から南海のリーグ3連覇に貢献するなど、通算打率.246、32本塁打の成績を残した。
守備でも外野の要・センターを守り、50年8月14日の大映戦では、右中間への大飛球をダイビングキャッチしたが、塁審が落球と判定したことがきっかけで、2リーグ制後初の放棄試合になったエピソードでも知られる。
博樹は、一博が50歳のときの子供で、父の選手時代のことはまったく知らなかったが、“伝説の人”だった南海時代の鶴岡一人監督や杉浦忠が、ゴルフをするときに父を家まで迎えに来るのを見て、「ああ、親父はプロ野球選手だったんだな」と実感させられたという。
上宮高時代に3番手の控え投手だった博樹は、「2世選手」とマスコミに取り上げられる機会もほとんどなく、“未完の大器”として速球を伸ばす指導に重点が置かれたことが、大学以降の覚醒と日米通算203勝の偉業につながったといわれる。もし、高校時代からエースナンバーを背負い、実戦向きに矯正されていたら、その後の野球人生も違ったものになっていたかもしれない。
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