ジョホールバルの歓喜「岡野雅行」 洗濯係からストライカーになった軌跡とは(小林信也)
野人・岡野雅行がGKの弾いたボールに食らいつき、ゴールネットを揺らした。あの光景を多くの日本人が瞼に焼き付けているだろう。
ジョホールバルの歓喜。
1997年11月16日、サッカー日本代表はついにワールドカップ本大会初出場を決めた。悲願を果たすゴールを決めたのは、岡野の右足だった。
10チームが参加したアジア最終予選で日本は苦戦を強いられた。大会中に加茂周監督が更迭され、ヘッドコーチの岡田武史が急遽監督に指名された。辛うじて、イランとの第3代表決定戦を戦う権利を得た日本は、2対2の同点のまま、ゴールデンゴール方式の延長戦に突入した。どちらかがゴールを決めた瞬間に試合が終わる。
舞台は中立国マレーシアのジョホールバル。異様な緊張状態の中、MFの北澤豪に代えて投入されたのが、岡野雅行だった。岡田監督がずっと「秘密兵器」と呼んでいた岡野だが、最終予選ではそれまで一度も出場のチャンスはなかった。
「岡田監督に呼ばれて、『入れてこい』と言われた。それが自分には『死んでこい』と聞こえました」
真剣な表情で岡野が振り返る。細かい指示も受けたが、一切覚えていない。
「イランも日本も、負けたら国に帰れない、戦争のような雰囲気でした」
選手たちは、第2次世界大戦以来の戦争に臨んでいる、そんな心理状態に追い込まれていた。大会中、興奮したサポーターたちが選手や監督の自宅にまで押しかけ、家族に心無い非難を浴びせるなどしていた。自宅を離れて戦う選手たちは、尋常な冷静さなど保つことができなかった。岡野を激しく動揺させたのは、岡田監督が現地から奥さんに電話をし、「日本代表と心中する覚悟で戦う。負けたら日本に帰れない。離婚してくれ」と言ったと誰からともなく聞かされた時だ。
「大会中、ずっと準備はしていました。でも、あの試合だけは出たくなかった」
部員はひとり
歴史的な立役者となった岡野雅行は、いつサッカーをやめてもおかしくない、雑草のような選手だった。
中学生の時、三浦カズの本を読んで「自分もブラジルにサッカー留学したい」と親に頼んだ。あっさり否定され、その代わり親戚の紹介で入ったのが、島根県の私立高校だ。サッカー部のある全寮制の高校と聞かされて行ったが、グラウンドの片隅でボールを蹴っている先輩がひとりいただけで、部はなかった。しかも、やんちゃな少年たちが集まり、生活指導の厳しい高校。それでも挫けず、仲間を募ってサッカー部を立ち上げた武勇伝は後にテレビドラマ化もされている。
島根県で3位になったが、岡野に声をかける大学も社会人チームもなかった。仕方なく、系列の日大に推薦入学した。その時点でサッカーの道は閉ざされていた。
「入学直後、サークルの勧誘が並ぶところで、サッカー部の『テスト生募集』の張り紙を見つけたんです」
セレクションの案内だった。指定の日時に行ってみると、50人くらいの志願者が集まっていた。いずれも全国各地の強豪校の出身者ばかりだった。
「選手をシャッフルして試合をやったのですが、僕は2点か4点か。とにかく点を取った。そしたら合格者2人の中に選ばれたんです」
だが所詮、戦力として期待されていたのではなかった。合格するとすぐ、マネージャーか洗濯係、どちらか選べと言われた。
「あの時、洗濯係を選んだのが正解でした。遠征先では荷物の番もしましたが、洗濯や仕事が終わればグラウンドに出て練習もできた」
やがて、岡野の快足に目を留めてくれるコーチが現れた。岡野は授業の100メートルタイム測定で、当時日本記録を持っていた同級生と走って勝った。しかもバスケットシューズで。記録は10秒7だった。
ある日、社会人相手の天皇杯予選でベンチ入りメンバーに抜擢された。周囲は「洗濯係が何で?」と冷ややかだった。しかも開始早々、エースストライカーの4年生が骨折。岡野に出番が回ってきた。ますます、スタンドにいる控えメンバーは怒りと妬みを募らせた。彼らの目の前で、岡野は快足を飛ばし、GKへのバックパスをカットしてゴールを決めた。その速さにスタンドは度肝を抜かれた。
「それから続けて3点取ったら、非難が拍手に変わって、やさしくなりました」
結局岡野はその試合で6点ものシュートを決めた。
長髪のルーツ
「ずっとマラドーナに憧れていたのですが、自分で足が速いとわかってから、カニーヒアの真似をするようになりました。プレースタイルはもちろん、ズボンの穿き方から長髪まで」
岡野は、やはり100メートル10秒7の快足フォワード、クラウディオ・カニーヒア(アルゼンチン)を目指した。彼の長髪が野人のルーツだった。
「ジョホールバルでシュートを決めた瞬間、ああ、これで日本に帰れる、とホッとしました。W杯に出られる喜びなんて全然なかった。それくらい、怖かったんです」