「世間知らずの王族」をしゃぶり尽くした天才音楽家の“手練手管”

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 古今東西、王室の財産を狙って、「世間知らずな王族」を籠絡しようとする輩は後を絶たない。「傾国の美女」という言葉があるが、もちろん男の「たかり屋」だっている。また、必ずしも男女の組み合わせとも限らない。

「狂王」の異名を持つバイエルン国王ルートヴィヒ2世は、同性愛的指向を持つ一方で、芸術をこよなく愛し、天才音楽家ワーグナーに湯水のごとく金銭を貢いだことで知られている。

 大阪大学名誉教授の猪木武徳さんの新刊『社会思想としてのクラシック音楽』の一部を再編集して、ワーグナーの「たかり屋」としての手練手管をご紹介しよう。

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ワーグナーを溺愛した「狂王」

 経済的な支援者としてのパトロンを考えるとき、ワーグナーの熱烈な支援者、バイエルン王ルートヴィヒ2世に触れないわけにはいかない。この王のサポートなしには彼は「ニーベルングの指環」を完成できなかったであろうし、ワーグナー最後の楽劇、舞台神聖祝典劇「パルジファル」をバイロイト祝祭劇場で上演できなかったはずだ。それだけではない。「トリスタンとイゾルデ」や「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演も、王の支援なしではままならなかっただろう。

 ワーグナーとパトロンのルートヴィヒ2世の関係を考える場合、当時のバイエルン王国、プロイセン、オーストリア、そして恐らくフランスなどの政治的関係を念頭に置く必要があろう。1870年にプロイセン王国は国内の統一を求めて、フランスとの戦争(普仏戦争)に入る。ドイツ統一によってバイエルン王国のルートヴィヒ2世は、政治的・宗教的に不確かな立場に置かれることになる。

 バイエルンがカトリック中心の王国であるのに対して、プロイセン王国をはじめとする諸邦はプロテスタントの領邦が多かった。この違いはあらゆる局面に現れた。例えば、ルートヴィヒ2世の同性愛的指向に関する道徳や法律は、二つの文化圏では異なっていた。ローマ・カトリック教会はそれを道徳的悪と規定してはいたが、犯罪とはみなしていなかった。しかしプロイセン主導で統一されたドイツ帝国の刑法典は、男性間の同性愛行為を犯罪と規定し、禁錮刑を科していた。そのような状況下で、バイエルンの国王が同性愛者であるということが明らかになれば、バイエルンの人々にとって不名誉になることは避けられなかった。

 こうした難しい状況に置かれた国王は、ドイツ帝国に組み込まれた後、次第に政治の場から身を引き、生来強い関心を持っていた芸術、特に音楽の世界に強く没頭するようになったと指摘される。彼の関心と崇拝の対象になったのがリヒャルト・ワーグナーであった。

相手を軽蔑しつつ利用する

「ローエングリン」に心酔していた夢想家のルートヴィヒ2世は、王位について、まず国王官房長プフィスターマイスターに命じたのは、借金を踏み倒しながら逃亡生活を送っているワーグナーを探し出し謁見させることであった。ワーグナーはバイエルン王が自分を探していることを知って喜び、ミュンヘンへと向かった。

 謁見してから、ホーエンシュヴァンガウの居館での1週間の滞在がどのようなものであったか、そしてワーグナーがいかに王に催眠術的とも思えるような心理作戦を仕掛けたのかは、関楠生『狂王伝説 ルートヴィヒ二世』に描かれている。

 やがてワーグナーは、次第にこの国王が純粋だが賢明ではなく、音楽の素養に欠けることに幻滅する。しかし、国王が自分の音楽に心酔し、自分の芸術活動への援助を惜しまない人間であることは見抜いていた。相手を軽蔑しつつ、なおかつその利用価値を計算したのであろう。

 こうしたワーグナーの姿を描いた諷刺画がミュンヘンのPunsch誌にしばしば掲載されている。王室の金庫の扉をノックするワーグナー、あるいはもっとあからさまに、ワーグナーが赴任した1864年には、次のような光景を描いた漫画も見受けられる。バイエルンの将校が国庫から大きなコインの袋を取り出そうとしている。傍に立っているワーグナーが「おいおい(友よ)、全部引き出さないように、わたしの『未来の音楽院』の費用をカバーできるように数グルデンは残しておけよ」と語りかけている場面である。

国民の反対を押し切り、すべてを手に入れる

 国王の精神的な問題を感知していたバイエルン国民は、ワーグナーがミュンヘンにやって来た目的を鋭く見抜いていたのである。彼が1864年10月にルートヴィヒ2世が用意した大きな邸宅に移り住んだとき、年俸4千グルデン(政府顧問官レベルであったと言われる)、就任のための贈与として1万6千グルデン、さらに引っ越し費用として4千グルデンを与えられている。ルートヴィヒ2世はその見返りとして、「指環」の版権の3番目の所有者となる。

 両者の間には多量の手紙のやり取りが残されている。その多くは「おお、わが王よ! あなたは神々しい」、「愛するただひとりの友」といったような文句で飾られており、ワーグナーの目論見が見え透いていて鼻白む思いがするばかりだ。

 宮廷内でも、そしてミュンヘン市民の間でもワーグナーに向けられた猜疑心は強まる一方であった。そのような状況下でも、ワーグナーは8千グルデンの年金と、4万グルデンの加給を国王から引き出すことに成功している。国家財政を傾かせるような厚遇はワーグナーの批判者をますます増やしたことだろう。さらに、ワーグナーが普墺戦争の折に政治に口をさしはさみ、国王を操るような挙に出始めたことは、彼の王室内の信望を損なうことになる。

 1870年7月、フランツ・リストの娘コジマとの同棲生活を続けていたワーグナーに、コジマとハンス・フォン・ビューローの離婚が正式に成立したとの知らせが入る。二人は翌月にルツェルンのプロテスタント教会で結婚式を挙げ、年末の(クリスマスの日でもある)コジマの誕生日にワーグナーは「ジークフリート牧歌」を生演奏で彼女に捧げる。自己の欲望に忠実なワーグナーは、欲しいものをすべて手に入れたのである。

猪木武徳(いのき・たけのり) 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』(サントリー学芸賞)、『自由と秩序』(読売・吉野作造賞)、『戦後世界経済史』、『経済学に何ができるか』、『自由の思想史』、『デモクラシーの宿命』など

デイリー新潮編集部

2021年6月18日掲載

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