小林亜星さん、「寺内貫太郎一家」出演の秘話 原作者・向田邦子とは幼馴染のような関係に
ドラマ「寺内貫太郎一家」で残した強烈な印象
作曲家の小林亜星さんが心不全で逝去した。88歳だった。
作曲家としては日立の「この~木なんの木気になる木~」というCMソングや、都はるみの「北の宿から」などで知られるが、なんといってもドラマ「寺内貫太郎一家」の頑固親父役で強烈な印象を残した。いまでもあの坊主頭の仏頂面で小林さんを記憶している向きも多いだろう。ここで知られざる日本テレビドラマ史の一断面を披露したい。
1974年にTBSの水曜劇場で放送された「寺内貫太郎一家」は、脚本を書いた向田邦子の父・敏雄をモデルとした頑固親父を主人公にした家族の物語だが、最初はなかなかタイトルが決まらなかったという。向田邦子は当初「父の詫び状」というタイトルを考えていたが、番組プロデューサーだった久世光彦は〈菊池寛みたいだと薄情に却下して〉、しばらく宙に浮いたまま企画が進んだという(以下、引用は向田邦子『寺内貫太郎一家』(新潮社刊)文庫版解説より)。「父の詫び状」はその後、向田の代表的エッセイ集のタイトルになったことは説明不要だろう。
そんななか、久世に向田から突然電話がかかってくる。向田は「メモして」「寺内貫太郎一家」と言って、すぐに切ってしまった。そういうぶっきらぼうな時は、向田が上機嫌な時だと、久世は経験的に知っていた。久世によると、「寺内貫太郎」という名前は寺内正毅と鈴木貫太郎という陸軍大将と海軍大将の名前を組み合わせたものらしい。
「これが貫太郎なのね」
さらに企画は進んでいったが、久世の回想によれば、これほど難産なドラマはなかったという。とりわけ家族の父親役の俳優選びが難航した。水曜劇場というTBSのゴールデンタイムの看板ドラマの主人公に、素人の作曲家を持ってくるとは〈悪ふざけにも程がある〉とされたらしい。今では信じられないような話だが、当時の小林は〈音楽の方ではもちろん斯界の第一人者ではありましたが、前髪をちょろりと額に垂らした長髪で、きざな金縁の眼鏡をかけてチェックの派手な上衣を着た軟弱でいくらか好色風のイメージ〉で、自分の父親に似ても似つかないと思った向田も、大反対した。
久世はその小林に頭を下げて丸坊主になってもらい、黒い丸眼鏡に毛糸の腹巻、紺の半纏という、いまではお馴染みの姿になってもらって向田の前に連れていき、説得を試みたという。しげしげと小林さんの姿を見た向田は目を丸くし、「これが貫太郎なのね」と呟くように言って吹き出し、その日から向田と小林さんは〈まるで幼馴染みたいに仲良くなって〉、向田が亡くなるまで二人の交流は続いた。「前髪ちょろり」の小林さんのなかに、寺内貫太郎をみた久世の慧眼がすごい。
日本中が元気だった頃、ドラマが元気だった頃の一挿話である。これでプロデューサーも原作者も主演俳優も、みな帰らぬ人となってしまった。
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