元中日「門倉コーチ」は無事…過去には失踪するも“復活”した選手もいた!
純真な男だったのに……
一方、借金トラブルで姿をくらまし、プロ野球史上初の無期限失格選手となったのが、高山忠克だ。
作新学院時代に4番打者として甲子園春夏連覇に貢献した高山は、国鉄入団2年目に18本塁打を記録。その後も準レギュラーとして年間90試合前後に出場していた。
だが、ヤクルトから阪神に移籍した71年、球団からギャンブルの借金の清算を命じられると、7月14日に合宿「虎風荘」を出たまま行方不明になった。
球団側は同29日、所在を明らかにしない高山が統一契約書第26条に違反するものとして、セ・リーグ連盟に契約解除を申請。さらに同連盟から大浜信泉コミッショナーに対し、野球協約第120条により、無期限失格選手に指名するよう要求があり、8月4日、公示された。
64年3月22日の巨人戦で満塁本塁打を打ち、三塁を回るとき、長嶋茂雄から「ナイス・ホームラン」と尻を叩かれ、うれしくてホームまでボロボロ涙を流して走ったという純真な男が7年後、27歳で球界を去ることになろうとは、人間の運命は本当にわからない。
「必ず恩返しをしますよ」
任意引退をクビと誤解し、失踪したといわれるのが、日本ハム時代の河野博文だ。
88年に最優秀防御率のタイトルを獲得した河野は翌89年、0勝6敗と不本意な成績に終わる。そして、復活を期した90年も、さらなる不運が追い打ちをかける。5月24日、練習中に左アキレス腱を断裂してしまったのだ。
球団側は7月6日、治療に専念させるため、河野を任意引退選手にした。当時の支配下選手枠は60人で、故障などで試合に出場できなくなった選手は、登録外の選手と入れ替え、任意引退扱いにするケースもあった。もちろん、クビという意味ではない。
だが、河野は8月31日以降、まったく連絡が取れなくなり、「調査機関にも依頼したが、行方を掴めない」(大沢啓二常務)と失踪騒動に発展。ついに所轄の世田谷署に捜索願を出すことになったが、そんな矢先、スポーツ紙の1面トップで報じられるなど、騒ぎを知った本人が姿を現し、一件落着となった。
「将来への不安とリハビリの辛さから」知人の家などに滞在していたという河野は「もう大丈夫。きっちりカムバックして、必ず恩返しをしますよ」と宣言。巨人時代の96年に6勝3セーブを挙げてVに貢献するなど、16年間の現役生活をまっとうした。
失踪といっても、いずれも犯罪と関連づけられる事件性はなく、古谷や河野のように騒動後に活躍した選手もいる。うつ病と伝えられる門倉元コーチも、中日の選手たちから現場復帰を待望する声が上がっているという。焦らずに健康を回復して、再びグラウンドに立つ姿を見たいものだ。
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