元中日「門倉コーチ」は無事…過去には失踪するも“復活”した選手もいた!

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 5月中旬から行方がわからなくなっていた元中日・門倉健2軍投手コーチが6月7日、無事自宅に戻ったことが明らかになった。一方、ほぼ時を同じくして、ソフトバンク育成選手のキューバ出身右腕、アンディ・ロドリゲスも、東京五輪予選出場後に姿をくらまし、米国への亡命が濃厚とみられている。コーチや選手の相次ぐ失踪は、野球ファンにとどまらず、世間の注目を集めたが、過去にも同様の事例がいくつかある。

「病院に行ってくる」

 2リーグ制がスタートした1950年、開幕投手に指名されながら、試合直前に失踪したのが、新球団・国鉄の右腕・古谷法夫である。

 社会人時代に都市対抗に2度出場した28歳のルーキーは、3月10日の開幕戦、大洋戦(下関)に先発する予定だったが、同日朝、「病院に行ってくる」と宿舎を出たきり、戻らなかった。

 開幕投手のプレッシャーに耐えられなかったことが理由だったようで、古谷は5回を過ぎたあたりで連絡を入れてきたが、職場放棄を怒った西垣徳雄監督に罰金3000円を科せられた。

 デビュー戦ではミソをつけたものの、古谷は同年9勝を挙げ、10勝の高橋輝、途中入団の金田正一(8勝)とともに創設間もないチームを支えた。55年に退団後、社会人に復帰。70年には南海・野村克也監督に招かれ、1軍投手コーチになった。

「プロ生活に自信をなくした」

“王貞治2世”と期待されながら、失踪し、自ら野球人生に幕を下ろしたのが、奥柿幸雄だ。66年の第1次ドラフトでサンケイから1位指名され、背番号1を貰った奥柿は、パンチ力を買われ、2年目に2試合4番を任されたが、4年間で通算打率.173、3本塁打と伸び悩んだ。

 そして、22歳になった70年オフ、奥柿は11月3日から横須賀・武山球場で始まった秋季練習を無断で休み、行方をくらました末、「プロ生活に自信をなくした」と引退を申し出、同27日に退団した。

 騒動のあらましは、週刊ベースボールの70年12月21日号で詳しく紹介されている。

 当時万年Bクラスだったチームは、球団名がサンケイからアトムズへ、さらにヤクルトとめまぐるしく変わり、首脳陣の顔ぶれも二転三転。複数のコーチが、苦手な変化球を克服させようとアドバイスするのをすべて吸収しようとした結果、フォームがバラバラになってしまった。そんな矢先に三原脩新監督が就任し、「また1からやり直しか……」と気持ちが切れてしまったようだ。

 結果論だが、同年は三原監督とともに、後に“名打撃コーチ”と呼ばれる中西太も入団し、ルーキー・若松勉を育てている。家を出るときに「来年こそやらねば」と燃えていた奥柿が初心を貫き、秋季練習に参加していれば、未来も変わった可能性があったのでは、と思えてくる。

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