なお「ワクチン」「東京五輪」に賭ける菅首相「再選シナリオ」 深層レポート 日本の政治(221)
閣僚・各省局長クラスに檄を飛ばす菅首相
「できるところからどんどんやってくれ」
菅義偉首相は5月31日夕、官邸に加藤勝信官房長官や河野太郎ワクチン担当相、田村憲久厚生労働相、萩生田光一文部科学相らを集めて会議を開き、6月21日から職場や学校単位で接種を始めるよう指示を出した。
高齢者への優先接種を終えていない段階での開始について、出席者の一部は懸念も口にしたが、首相は「高齢者を待つのでなく、先に進めるところは進ませる」と意に介さなかった。
職場・学校での接種には、各自治体での接種に使われている米ファイザー製ではなく、政府が約2500万人分を調達した米モデルナ製のワクチンを使う。
政府関係者は、「政府は豊富に在庫を抱えており、企業を選別することなく短期間でワクチンを届けることができる」と強調する。打ち手も企業の産業医などに担わせることから、河野氏は職場接種が「各自治体の接種計画に影響を与えない」とも語った。
こうした政府の方針に呼応し、早速伊藤忠商事が6月21日から接種を始める方針を示したほか、トヨタ自動車など多くの従業員を抱える企業が準備を始めた。大学でも、広島大など少なくとも15の国立・私立大が学生らへの接種を始める意向を示している。
「今は接種率の向上が何より大切だ。優先順位が多少狂っても構わない。批判を恐れてリスクを取ろうともしない奴は許さない」
首相は各閣僚らにこう檄を飛ばし、さらに各省の担当局長クラスにまで直接電話をかけ、接種を急ぐ方策を練るよう指示しているという。特に厚生労働省には、「いまだに平時のような感覚で、リスクを避けることばかり考えている」と怒りが収まらない様子。
官邸関係者は「救急救命士や臨床検査技師による接種を認めたのは、首相が厚労省の頭越しに強い指示を出したから」と打ち明ける。
五輪中止を求める意見が6割近く
首相が接種を急ぐ理由は、ワクチン接種が東京五輪・パラリンピックの開催、ひいては自身の政治生命がかかる秋の政局のカギを握るからだ。
「今の状況では普通はない。こういう状況の中でいったい何のためにやるのか目的が明らかになっていない」
政府分科会の尾身茂会長は6月2日の衆院厚生労働委員会で、五輪開催に突き進む政府をけん制するように大会への懸念を並べ立てた。
同日の政府専門家会合でも、「ステージ4(爆発的感染)だったら、個人的にはできない。五輪でクラスターでも発生したら、それだけ(医療提供体制に)負荷がかかる」などと強い口調で警告を続けた。
大会をめぐっては、選手に加え関係者ら約7万8000人の訪日外国人への感染対策が焦点となっている。政府や大会組織委員会は、選手村に入る8割以上の人が入村までにワクチン接種を終える見通しとなったことや、検査や徹底した隔離策を説明し、「安全・安心に開催できる」(菅首相)と訴える。
それでも感染拡大への懸念をぬぐうことができず、5月中旬の世論調査では、中止を求める意見がなお6割近くにのぼった。
「政府の感染対策への不満が『意地でも五輪を開催しようとしている』という批判につながっている。これを利用し、国会で中止論をあおる野党の思惑通りに世論が動いている」
自民党幹部は苦々しい表情でこう打ち明ける。
実際は、大会を介して感染が拡大する可能性は低いとの指摘もある。昨年来、世界で行われた400以上のスポーツの国際大会では、今回の五輪と同様に、選手と一般人を隔離する「バブル方式」を採用したことなどにより、クラスターが発生した例はない。
政府関係者は、「7月10日ごろには、重症化リスクの高い65歳以上の高齢者に、少なくとも1回接種を終える見通しが立った」と語る。高齢者に接種している米ファイザーのワクチンは、1回の接種でも従来型なら7割近い感染予防効果があるだけに、これを大会開幕の2週間前に高齢者に行き渡らせる効果は大きい。
政府関係者は「五輪までに死者や重症者を減らせば医療提供体制の改善にもつながり、五輪を不安視する世論も変わる」と期待をかける。
「補正予算成立後」の解散シナリオも浮上?
もちろん、菅首相が東京大会の先に見据えるのは、秋の政局である。
緊急事態宣言が6月20日まで延長されたことで、東京都議選(7月4日)との「ダブル選」という見方はほぼなくなった。都議選と衆院選を同時に行うには、公示日や選挙期間などの関係から6月11日までに衆院を解散する必要があるが、「全国で人流が増える衆院選の実施を宣言発令中に決められない」(自民党閣僚経験者)との見方が強い。
その後の日程(東京五輪開会=7月23日、パラリンピック開幕=8月24日)を見ると、次に衆院を解散できるタイミングは、実質的に9月5日にパラが閉幕した後だ。
これだけ感染への危険が喧伝された五輪・パラを成功に導くことができれば首相の求心力は高まり、秋の衆院選で有利に働く――。首相がこう考えているのは間違いない。
立憲民主党の枝野幸男代表が、「国民の健康と命を最優先にできないのなら断念すべき」と盛んに大会の中止論をぶったことも好材料となる。「きちんと感染対策を分析せず、目先のポピュリズムに乗るようでは、政権担当能力はない。こう大手を振ってアピールできる」(自民党幹部)からだ。
政府・与党では、パラ終了後にただちに衆院を解散するのではなく、臨時国会を短期間召集して、経済対策となる2021年度補正予算を成立させた後まで持ち越すプランもある。コロナで疲弊した経済を立て直す名目でバラマキ型の政策を打ち出せば、首相の求心力はさらに高まるという筋書きだ。
衆院議員の任期は10月21日まであるため、「任期を目いっぱい使って補正を仕上げればいい」(官邸関係者)という声もある。9月末で切れる菅首相の自民党総裁任期については、「『補正を通すため』などの名目を立て、総務会で短期間の総裁任期延長を決めれば何の問題もない」と、ある党幹部は涼しい顔で語る。
「五輪成功と補正予算を掲げて衆院選に勝利すれば、選挙後の総裁選は無投票か消化試合にできる。さらに、党役員人事と内閣改造を総裁選後に後回しすれば、党内でいうことを聞かない人はいなくなる」
首相側近は、こうした大胆なプランも口にする。
細田派・麻生派に詣でる岸田前政調会長
ただし、これはあくまで五輪が成功した場合に成り立つシナリオだ。訪日外国人から変異株が広がり、感染が急拡大するような事態になれば、「菅政権は秋までの選挙管理内閣に成り下がり、早々の退陣が避けられなくなる」(自民党細田派関係者)との見方は強い。
もともと、自民党の細田派や麻生派、竹下派などの主流派は、二階俊博幹事長を重用する首相の人事に不満を募らせている。無派閥の首相は党内基盤がぜい弱なだけに、わずかな失敗だけでも「菅降ろし」が始まる可能性は常にあるのだ。
党内では、岸田文雄前政調会長が次期総裁選への出馬を念頭に、6月中にも「富の再分配」をテーマにした経済政策に関する派閥横断型議員連盟を立ち上げる予定だ。岸田氏は現在も、次期総裁選での協力関係を築こうと、細田派や麻生派幹部の事務所を定期的に回っているという。
首相とすれば、次期総裁選で岸田氏に出馬すらしてほしくないのが本音だろう。しかし、細田派に強い影響力を持つ安倍晋三前首相や麻生派会長の麻生太郎氏らが、岸田氏に乗り換えようと思えば乗り換えられる態勢はできている。
すべてはワクチンと東京大会次第――という菅首相の大胆な賭けは吉と出るか、凶と出るか。