クロマティに殴られた男が感じた運命の糸…乱闘シーンの裏で本当にあった「人間ドラマ」

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 近年は派手な乱闘シーンが見られなくなったプロ野球だが、死球などをきっかけに乱闘騒ぎが当たり前のように起きた1990年代以前では、両軍ナイン総出で切った張ったの修羅場が繰り広げられる一方、思わず心が和むような話も伝わっている。血気溢れる乱闘シーンの裏で、本当にあったエピソードを振り返りたい。

右フックとヘッドロックをお見舞い

 死球に怒った巨人のウォーレン・クロマティが、相手投手を殴って退場になる“熊本の乱”が起きたのが、87年6月11日の中日戦である。

 7回、宮下昌己の初球がクロマティの右脇腹を直撃したのが事件の発端だった。
 
 クロマティは「帽子を取って謝れ!」と叫びながらマウンドに駆け寄ったが、宮下が謝る素振りも見せなかったことから、顔面に右フックをお見舞い。さらにヘッドロックをかけて引きずり倒した。

 これを見た両軍ナインが一斉にベンチを飛び出し、「やりやがったな、バカヤロー!」などと罵り合いながら、大乱闘が始まった。興奮したファンも乱入し、警察官、警備員約50人が制止する騒ぎとなった。

 以来、宮下は「クロマティに殴られた男」として有名になったが、この一件がきっかけで、91年の現役引退後、クロマティと友情が芽生えることになる。

 会社員時代、古巣・中日の東京遠征時に、「取引先に行く」と上司に嘘を言って東京ドームに顔を出した宮下は、同期入団の平沼定晴に「ちょっと来い」と言われ、何が何だかわからないうちにグラウンドまで連れていかれた。

 なんと、その日は90年限りで巨人を退団したクロマティが来日しており、思いがけず再会が実現。まさに運命の糸に導かれたとしか思えなかった。

 これがご縁となり、宮下は2007年6月17日、クロマティが「ハッスル」の一員としてプロレスデビューを飾った際にも、指導している少年野球チームの試合が終わったあと、千葉から会場のさいたまスーパーアリーナに駆けつけ、リングサイドで応援した。クロマティも直接会うことはできなかったものの、「殴ったことは後悔している。許してくれた宮下さんに感謝。男気を感じます」と応援に来てくれたことを喜んだ。その後、2人は13年1月にテレビ番組に揃って出演し、26年ぶりに和解の握手を交わしている。

「あのシピンが止めるのか」

 2打席連続死球に激怒してマウンドに向かったのに、意外な展開に拍子抜けして、矛を収めたのが、ヤクルト時代の大杉勝男だ。

 80年10月1日の巨人戦、大杉は3回に古賀正明から左肘に死球を受けたあと、5回の次の打席でも、左腕にぶつけられた。東映時代に屈強な外国人選手をパンチ一発でKOした暴れん坊は、「2度目は許さん!」と全速力でマウンドに突進した。

 だが、ユニホームを掴まれながらも古賀が間一髪逃げ去ったため、大事には至らなかった。試合後、大杉は「2度目のときは、相手が逃げてくれて良かった。逃げなかったら、いくところまでいったかも」と振り返りつつも、「(巨人の内野手)シピンが止めに入ったので、『お前が止めるんなら』と思って我慢したよ」と明かした。

 実は、ジョン・シピンは、78年5月30日の大洋戦と7月10日のヤクルト戦で、死球を与えた相手投手に殴りかかり、いずれも退場処分になっていた。そして、ヤクルト戦で怒り狂うシピンを後ろから羽交い絞めにして、襲われた味方投手を助けたのが、大杉だった。

「あのシピンが止めるのか」。おそらく大杉は、2年前の乱闘で対決した“問題児”がわざわざベンチから仲裁に駆けつける予想外の行動を目の当たりにして、怒りもしぼんでいったのではなかろうか。大杉の竹を割ったような性格が如実に表れた味のある話である。

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