【無罪主張】日立妻子6人殺害の父親が寄せていた手記 「私はなぜ家族を殺めたのか」

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授かった双子の男の子 「頼瑠(らいる)と澪瑠(れいる)」

 そのような日々を送る中、授かったのが双子の男の子だったのです。私はすぐに新聞配達のアルバイトを始めました。夜中1時には販売店に出勤し、300世帯分の朝刊を組み、早朝、順路帳を頼りに一軒一軒配達して歩きました。朝5時頃いったん帰宅し、昼間の仕事に向かう。1カ月後、合わせて30万円以上の給料が手に入り、「これなら何とかなる」、心強く思ったものです。

 母が胃癌だと分かったのは、ちょうどその頃です。父が亡くなって実家のローンがきつくなり、母は叔父と八街を離れ、四街道のアパートで暮らしていました。育った家もなくなって、私もめったに帰省せず、電話で話せば口ゲンカばかり。母からの電話にも居留守を使うようになっていた。「お母さん、手術したからな」という叔父からの電話で、初めて知りました。

 母は少し痩せていました。でも元気そうで、「胃を全部取ったから、少しずつしか食べられないんだ」と口にしていました。ほどなくして母は退院し、「あれが食べたい、これが食べたい」とメールしてくるようになった。「元気になったらおっちゃん(叔父)と一緒に日立においで。美味しい魚を食べに那珂湊へ行こう」と、私は返事をしたものです。

 平成26年5月7日、双子が生まれました。病院の待合室で義母と義母の姉の三人で待っていると、拳大の頭の赤ん坊が二人くっつき合い、運ばれてきました。小さな小さな手、二人揃って保育器に入っていた。

 双子は先に生まれたほうが弟で、後から生まれたほうが兄になると、病院で教えられました。妻のお腹の中では兄が右側、弟が左側にいましたので、「ライトとレフト」だと、「頼瑠(らいる)」「澪瑠(れいる)」と名付けました。

 いっぺんに2人増えたため、「手が3本あれば」と妻も漏らしていました。夢妃は妻をよく手伝っていて、長男や次男をトイレに連れて行ったり、洗濯物を干したり。私はオムツも替えられない、ダメな父親でしたが。

 その年の暮れ、母が亡くなります。73歳でした。死に目には会えず、母は葬儀所の小さな部屋に横たわっていました。家族だけの葬式で送りましたが、恵から「最後なんだから、お顔触ってあげなよ。声かけなよ」と言われ、私は堰を切ったように泣きました。

 30歳で親が二人ともいなくなり、その時分から私は精神的にバランスを崩していたのかもしれません。

2時間で1万5千円 福島原発での仕事

 私が福島の「イチエフ」に通っていたのは、翌年の平成27年3月からの5カ月間になります。深夜2時頃に日立を出て、楢葉町にある「Jヴィレッジ」に集合。白い防護服を着込みバスで発電所に向かう。朝6時が始業時間でした。爆発した建屋前の法面の除草が作業内容で、仕事は2時間までと決まっていました。賃金は以前ほど高くはなくて、1日1万5千円でした。

 四街道警察から連絡があったのは、年の暮れです。叔父がアパートで一人、亡くなっていました。発見時には死後10日ほど経っていたといい、私が警察で身元の確認を申し出ると、「とても見られる状態ではない」と説明されました。アパートの部屋は特殊な掃除が必要で、ネットで調べ業者に依頼しました。ゴミが溢れかえり、風呂場の中までいっぱいでした。倒れていた場所には、何とも言いようのない跡が残っていた。

 熊本にいる叔父の兄から事後処理を頼まれ、手元に残ったお金で、私は運転免許を取り直しました。借金を少し返し、中古のアルファードを買い、年明けから、ひたちなか市にある運送会社で働くようになったのです。「今度は大丈夫だね」、妻にそう確認されました。

 その頃が生活は一番安定していました。妻も派遣で病院の歯科助手をしていて、私も会社とは別に、車の転売でもうまくいっていましたから。会社の所長に「大型と牽引の免許を取って、トレーラーに乗らないか」と誘われたのは、半年が経った頃です。

 私は小さい時分から父のようなトレーラー運転手になるのが夢でしたので、二つ返事でお願いしました。が、会社が教習所の予約をしてくれて、研修のため手続きをしていたところ、大型に必要な経験年数が3年に足りないと気付くのです。

 厭なこと、言いづらいこと、気まずいことがあると、私は逃げるばかりでした。その時も所長に正直に説明し謝ればいいものを、何日間も連絡をしなかった。所長からの連絡は妻に行き、私は会社を辞めました。平成28年の6月です。翌月には妻の派遣の契約も終了しました。

 毎日のように、妻とパチンコに行くようになっていました。ハローワーク通いも続きましたが、面接は落ち続けた。パチンコで勝った金や、私が詐欺まがいの車の転売をして得た金、借金で何とかつないでいました。そして、私も妻も仕事が見つからないまま、平成29年が明けたのです。

 正月3日、家族7人で行った東海村の「虚空蔵さん(村松山虚空蔵堂)」で、本尊の菩薩様を拝み、きっといい年になりますようにと、お祈りしたのを覚えています。生活はきつきつでしたが、妻がまだ夜の仕事についていなかったので、比較的平和な時期が続いていたように思います。

 ただ、すでに借金するあてもなくなり、わずかな貯金も底をついていました。元手はなく、パチンコにすら行けなくなっていた。私から、別居や離婚を提案したのはこの時期です。妻も「別れて、母子手当もらって暮らした方が楽かな」と思っていたと、後で聞きました。病院の受付の仕事も決まっていましたし。

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