【無罪主張】日立妻子6人殺害の父親が寄せていた手記 「私はなぜ家族を殺めたのか」

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父の名の1文字託した「長男・幸虎(たから)」

 この日を境に、私たちは一緒に暮らすようになりました。月3万円の家賃は折半にし、私が風呂釜やエアコン、足りない家財道具を買い揃えた。といっても、妻は実家によく泊まっていたし、私も頻繁に千葉と往復していたので、本格的に同棲を始めたのは付き合って3カ月後、妻が妊娠してからです。妻は生理不順でピルを飲んでいたのですが、私が知らない間に服薬を止めていて、「計画的だったの?」と後に笑い合った記憶があります。ともに親は、結婚には大反対でした。

 私の心配は、自分の子供が生まれたら夢妃が可愛くなくなってしまうのでは、ということでした。そして、恵の両親は俺の子供を可愛がってくれるのか。そんな取り留めのない話を、妻と繰り返ししたのを覚えています。私は出産の立ち会いを希望し、「父親教室」にも通い、検診にも付き添いました。平成22年8月23日、こうして長男・幸虎(たから)が生まれたのです。私は本当に、うれしかった。

 この1年半前、つまり私が恵と出会う3カ月ほど前、私は63歳で父を亡くしていましたから。父は大型トレーラーの運転手で、同居していた父の弟も同じ会社でトラックの運転手。家には車のおもちゃが溢れていて、私も将来は運転手か整備士になりたいと口にしていました。

 遅くに授かった子で一人っ子でしたので、父は「ハチミツに砂糖をかけたくらい甘い」と母に叱られていました。ろくに勉強もせず、バイクを乗り回しては停学、喫煙が見つかっては停学を繰り返していた私は高校を中退。親の脛をかじりながら、車のブローカーやパチンコ屋の「サクラ」などをしてぷらぷらしていたのです。

 父の癌が見つかったのはそのような時です。ステージIVAの直腸癌でした。母によれば、最後まで父は私の身を気にかけていて、「育て方を間違えたか」「心配だ」と口にしていたそうです。このまま八街にいてもまともになれない。半ば逃げるような気持ちで茨城に来たのは、このすぐ後です。少なくとも今、私は仕事を持ち、家族ができた。だから初めての子供に、父の名の1文字をどうしても託したかった。調べていると「幸」に「たか」の読みがある。干支が寅だったので、虎のようにたくましくと、「幸虎」と名付けたのです。

無免許運転で逮捕、収監

 ところが幸虎が生まれてひと月後、私は無免許運転で逮捕されました。4年前に千葉で事故を起こし、執行猶予中だった私は在宅で起訴され、栃木県の黒羽刑務所に収監されました。妻は両親には「夫は出張中」と嘘をついていたようです。日立から黒羽までは小さい子を乗せ下道を行けば、3時間はかかります。ミルクやオムツ交換もある。幸虎を連れ、妻はよく面会に来てくれた。毎日のように手紙をくれて、出所する頃には200通近くになりました。

 収監されて半年後に起きたのが東日本大震災でした。黒羽刑務所もかなり長い時間揺れ、揺れが止まるとヘルメットをかぶった刑務官たちが見回りにきた。ただし、外があんなことになっていると知ったのは、翌日流れたラジオからです。私たちのアパートは高台にあったのですが妻の実家は海側で、これは確実にまずい。妻や子供たちが実家にいた可能性も拭えない。新聞の死亡者欄に名前はないか、確かめる日が続きました。同室には岩手や宮城の出身者もいて、知人の名を見つけ、涙する人もいましたから。

「全員大丈夫だから」という妻の手紙が届いたのは、10日ほど経った頃でした。妻は隣町の病院に勤め、二人の子供は保育園に預けていた。その日、普段なら車で30分のところ、国道は津波で通行止め、山道も崩れ、4時間かけて保育園に向かったそうです。園児たちは近くの小学校に避難していて、夢妃と幸虎、二人の顔を見るまで、生きた心地がしなかったと綴っていました。

 4カ月後、1カ月半の仮釈放をもらい、私は出所しました。7月12日です。幸虎は私が入所した時には首も据わっていなかったのに、「もうすぐ歩くのでは」と思うほど成長していて、驚いた記憶があります。「真面目になるから」と妻に詫び、私は水道工事の仕事に就きました。ただ運転免許がないので日給が7千円。月に14万円にしかならなかった。それも仕方がないと考えていましたが、一人親方のその会社は集金が遅れがちとかで、給料も滞るようになりました。

 妻と相談して、結局その会社は辞めました。母や千葉の友人に借金し、何とか暮らしていたのがこの時期です。まだ入籍していなかったので母子手当と児童手当も受給していたのですが、それも生活費に回していました。パチンコ屋に通い、勝ったら5万、10万と恵に渡すという日々が半年ほど続きましたが、建設現場の仕事を紹介され、給料は1日1万1千円になりました。

次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族に

 2カ月が経った頃、妻のお腹に子供がいるのが分かります。こうして平成24年9月6日の早朝に生まれたのが、次男・龍煌(りゅあ)です。長男が虎だったので、次男にも干支の龍を付けました。

 子供も3人と家族も増え、生活はきつかったけれども、楽しかった。給料日前は「あまり予算がないから」と、近所の市営動物園を利用しました。子供の入場料は100円で、ライオンもキリンもカバもいて、動物好きの子供たちには充分でした。夢妃も小学1年になっていて、弟たちの面倒を何かと見たがったものです。

 しかし、それまでのツケはどうしようもなく膨らんでいたのでした。アパートの家賃の支払次男・龍煌(りゅあ)が生まれ5人家族にいが少しずつ遅れ、携帯電話の使用料も不通になる寸前で振り込む繰り返し。二ヵ月にいっぺんの市からの手当で、その場は何とか持ち直す。仕事で世話になっている知人には、よくこう言われました。

「前借りはかまわない。でも今月三万足りないってことは、来月六万足りなくなるんだぞ」

 私はどこか、開き直っていたのかもしれません。そのうち、同居しているのを市に知られ、母子手当も停止されました。こうして2カ月に1度入っていた20万円の手当は、一切入らなくなりました。記憶を辿ってみれば、私たちは当時、一番ケンカをしていたように思います。

 最初は妻のことをおとなしい子と見ていました。でも、1年も経つと、私に身体ごと向かってくるようになっていた。妻は中学時代、柔道を習っていて、146センチと小柄なのに、172センチで体重100キロの私を投げる。一方、私も手を出すようになっていました。ただ、その後は反省し、そのようなケンカはなくなりましたが、事件後、「DV夫だった」とマスコミには書かれます。

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