「BAD HOP」メンバーが語る地元・川崎“南部”の不良文化 今や成功した彼らの原点とは

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川崎の“北部”と“南部”

人口150万人を擁する大都市・川崎。飲む・打つ・買うが揃う繁華街をヤクザが闊歩し、町工場が立ち並ぶ多文化地区で貧困が連鎖する市の最南部では、2015年に起きた3人の少年が中1を殺害した陰惨な事件のほかにも、ドヤ街での火災、ヘイト・デモといった暗い事件が続く。その一方で、この街からは全国の若者の間で熱狂を呼ぶラップ・グループ「BAD HOP」が巣立ってもいる。ここは地獄か、夢の叶う街か――。日本の未来の縮図とも言える都市の姿を活写して話題の『ルポ川崎』(磯部涼・著、新潮文庫刊)から「第2話 不良少年が生きる〝地元〟という監獄」を紹介する。

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 川崎は二つの顔を持っている。その地名を聞いたときに、ニュータウンと工場地帯という相反する光景が思い浮かぶだろう。あるいはそれは、平穏だが退屈な土地と、刺激的だが治安が悪い土地というイメージに置き換えられるかもしれない。そして、そういった二つの側面は、各々(おのおの)、川崎市の“北部”と“南部”が担(にな)っているといえる。

 脚本家の山田太一は、かつて、川崎市北部の街を初めて訪れた際のことが強く印象に残っているという。同地は1960年代からいわゆるニュータウンとして開発が進められていったが、彼がその駅に降り立ったところ、まだ周囲に建物は少なく、砂埃(すなぼこり)の向こうに団地の影だけが見えた。やがて、山田が移住すると、まるでモノクロームの世界に色を入れるかのごとく、徐々にマクドナルドのようなチェーン・ストアができて、街は賑(にぎ)わっていった。彼はその過程について、「エロティックな喜びがあった」と振り返る。

小沢健二が歌った「郊外の憂鬱」

 しかし、いざニュータウンが完成すると山田はそのフラットな街並みに、むしろ、不穏なものを感じ始めた。そこには暗さと汚れが、つまり、味わいが、エモーションを喚起してくれるものがなかった。彼は思う。「なるべく清潔にして滑らかにして、というここで生まれた子はいったいどういう情感を持つんだろう」。80年には、川崎市北部(高津区)の、一見、平穏な家庭で起きた、20歳の予備校生が受験のプレッシャーを要因として、両親を金属バットでもって殺害するという事件が世間を震撼(しんかん)させた。逆説的にいえば、そのような環境がエモーションを喚起したのか、「岸辺のアルバム」(77年)にしても、「ふぞろいの林檎たち」(83年~)にしても、山田はフラットな世界における苦しみを描くことで高く評価されていく。

 だからこそ、山田は「10年前の僕らは胸をいためて“いとしのエリー”なんて聴いてた/ふぞろいな心はまだいまでも僕らをやるせなく悩ませるのさ」(「愛し愛されて生きるのさ」、94年)と、彼の作品を引用しながら、しかし、浮き浮きと街を駆け抜けていく歌をつくった若いシンガーソングライターが、川崎市北部(多摩区)で育ったことを知ったとき、はっとしたのだ。山田は彼――小沢健二との対談で、いつか気にかけたフラットな世界に産み落とされた子ども、それこそが「小沢さんだってわかった時に、目が覚めるような感動があった」と告げた(「月刊カドカワ」(角川書店)1995年2月号より)。

 以降、小沢は楽観的なイメージをまとって人気を得ていくが、自身の根底には空虚さがあるとし、そのような郊外の憂鬱(ゆううつ)を“川崎ノーザン・ソウル”と呼んでいる。ちなみに、彼との共作「今夜はブギー・バック」(94年)をヒットさせたラップ・グループ=スチャダラパーの3分の2、ANIとSHINCOこと松本兄弟も川崎市北部(高津区)の出身だ。彼らは、90年代初頭のデビュー当時、現代日本のフラットな社会状況ならではのラップ・ミュージックのあり方を模索。銃やドラッグではなくゲームやマンガ、そして、それらをもってしても解消することのできない退屈について歌った。そういう意味では、川崎市北部は阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件によって安全神話が崩壊し、しばしば、日本社会の、悪い意味での転換点として位置づけられてきた95年以前のリアリティを象徴する場所だったと定義できるかもしれない。

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