足かけ3年「28連敗」を記録したエースも…投手のドロ沼連敗記録、それぞれの事情

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シュートとシンカーがアダ

 プロ野球で「不滅の連敗記録」をつくった投手は誰か?

 答えは、大洋時代の権藤正利の28連敗である。プロ1年目の1953年に15勝12敗で新人王を獲得した権藤は、翌54年も2年連続チーム最多となる11勝を挙げ、エースになった。

 ところが、3年目の55年に大きな落とし穴が待ち受けていた。「ピッチングの幅を広げよう」とシュート、シンカーを覚えたことがアダとなり、持ち味のストレートが走らなくなってしまったのだ。

 4月に完封勝利を含む2勝を挙げたあと、11連敗。7月6日の国鉄戦で2ヵ月半ぶりの3勝目を挙げ、ホッとしたのもつかの間、ここから本当の“地獄”が始まる。7月9、10日の広島戦で2日続けてリリーフで連敗すると、ズルズル8連敗。3勝21敗でシーズンを終えた。

 さらに翌56年も、4月12日の阪神戦で8回を1点に抑えながら0対1で負け投手になるなど、不運に泣いた試合も多く、0勝13敗。連敗記録は「21」に伸びた。

 同年オフ、佐賀県の実家の両親から野球に見切りをつけて家業の酒屋を次いでほしいと頼まれたが、「このまま終わっちゃ、男じゃない」と連敗脱出に執念を燃やした。

 だが、56年も開幕から7連敗。「もう二度と勝てないのでは?」とあきらめかけた矢先の7月7日の巨人戦で“奇跡”が起きる。

 なんと、4安打完封勝利で、足掛け3年にわたる連敗を「28」でストップ。3回に自ら先制タイムリーも放った権藤は「今日は記念すべき日になるでしょう」とうれし涙を流し、同年は12勝と完全復活をはたした。

一度歯車が狂うと……

 一方、パ・リーグの最多連敗記録は、梶本隆夫(阪急)の「16」だ。高卒1年目にいきなり20勝を挙げ、米田哲也とダブルエースになった梶本だったが、66年は4月に2連勝と順調なスタートを切ったあと、すっかり白星から見放されてしまう。

 0対2と惜敗した9月4日の西鉄戦で、56年の飯尾為男(高橋)、59~60年の大津守(近鉄)と並ぶパ・リーグ史上最多タイの13連敗を記録すると、同19日の南海戦も4安打2失点の好投報われず、0対2で敗れ、単独トップの14連敗。

 さらに同27日の東映戦も、7回に自らの暴投で決勝点を許し、シーズン15連敗となった。梶本ほどの大エースでも、一度歯車が狂うと、落ちるところまで落ちてしまうのが、野球の怖さである。

 翌67年も試練が続く。4月11日の西鉄戦、梶本は8回を1失点に抑えながら、0対1で敗れ、パ・リーグのワースト連敗記録も「16」に更新した。

 だが、同22日の西鉄戦、「思い切り投げていれば、いつか勝てると思っていた」という梶本は、毎回得点圏に走者を背負いながらも、粘りの投球で4回までゼロに抑える。さらに1対0の5回に自らの中前安打でチャンスをつくり、貴重な3得点につなげた。

 ところが、勝ち投手の権利まで、あと1人という5回2死から連続本塁打を浴び、たちまち2点差。「どうしても(梶本に)勝たせたかった」という西本幸雄監督は、6回からリリーフエースの大石清、7回からは予定外の米田まで投入し、4対2で逃げ切った。

 久しぶりの白星を喜びながらも、「ヨネ(米田)まで引っ張り出し、チームに迷惑をかけた」と反省した梶本は、同年15勝を挙げ、阪急の球団初Vに貢献している。

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