「田村正和」元マネージャーが明かす“極秘”私生活 人前では食事をせず、トイレ中は誰も入れない徹底ぶり

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 その死が報じられたのは、亡くなってひと月以上が経ってから。この点からも私生活に「鉄のカーテン」が引かれていたのが窺える。俳優に徹し、プライベートを秘し続けた田村正和(享年77)。元マネージャーらが知られざる実像を語った。

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 田村の自宅は、東京・世田谷区成城の高級住宅街にある。最後のテレビ出演は3年前。以来、表に出ることはなかったが、近所の住民はその姿をしばしば目撃していた。

「田村さんはいつも朝5時頃に近くを散歩していましたよ。夏はTシャツに短パンのこともあったけど、冬だと黒のトレンチコートにつばの付いたハット。粋な恰好でした」

「すれ違うといつも挨拶をしてくれる。遠くから見てもすぐわかるんです。何ていうか、オーラが出ているから」(別の住民)

 ところが、昨年末以降、大きな変化が見られたという。

「5時からだった散歩が、10時とか11時とかになったんです。しかも、奥さんが常に同伴している。身体がだいぶ弱ってきていたんでしょうね。昔から心臓が悪いといって、寒い時期になるとハワイに“避難”することもあったから。ここ2カ月ほどは姿を見なくて心配していたんですが……」(また別の住民)

 5月18日になって、4月に心不全で死去していたことが公表されたのだ。

 田村の父はバンツマこと、俳優の阪東妻三郎。兄や弟も役者の俳優一家だ。テレビ時代劇「眠狂四郎」が出世作となり、田村も父同様、一貫して「二枚目」路線を歩む。それだけに生活感が見えることを嫌がり、人前で食事をしなかった……などの「伝説」が知られているが、

「本当にその通りでした」

 とは、かれこれ30年程前、ドラマで田村と共演した俳優である。

「ビックリしたのはトイレ。撮影所でトイレに行ったら、田村さんの付き人が入り口前に立っていてね、“いま田村が使用中ですので”って言われて入れてもらえなかった。役者仲間にさえも無防備な姿を見せたくなかったんだろうね。食事もそうで、食堂でも、皆でロケ弁を食べている時でもあの人だけは食べない。体型維持の意味もあったのか、缶のスープに半分くらい口を付けて終わり。体力が全然なく、100メートルの坂を下るシーンを撮っても途中で息を切らしていましたよ」

 続けて、

「私は昭和55年から5年間ほど、正和さんに仕えていましてね」

 と言葉を継ぐのは、田村のマネージャーを務めた男性だ。

「食事をするところを人に見せなかったのは、その姿があまり美しくないという思いがあったんでしょう。スタジオなら店屋物を取って楽屋の中、ロケなら弁当は車の中で一人で食べていました。プライベートでの食事も個室のない店には絶対に行きませんでしたよ。日本橋の高島屋によく買い物に行っていましたが、そこでもVIPルームのような個室に入り、革靴やジャケットを持ってきてもらって試着する徹底ぶりでした」

 美意識はガムの噛み方にまで及び、

「“奥歯で噛んじゃ駄目だ。くちゃくちゃ音がして汚いだろう。ガムは前歯で噛むんだよ”と。でも前歯だと噛んだ気がしないんですけどね。“自分は田村正和のマネージャーという意識を常に持て”と言われてね。服装なんかよく注意されたものです」

“子供と遊ばない”

 雑誌のインタビューでも「パパ臭」を出さないためか、「浮気を許せない妻は失格だ」「子供とも遊ばない」などと答えることもあった田村。しかし、実像は良き家庭人であったという。近所でも、娘が幼い頃、登校時に姿が見えなくなるまで手を振り続けるのが目撃されているが、

「娘さんのことはとても可愛がっていましたよ。一人娘だったから尚更かな。運動会など学校の行事にもよく行っていた。夏は野球帽を目深に被ってサングラス、冬はコートの襟を立てて、顔がバレないようにしていましたが、独特のオーラがあるので逆に目立ってしまっていましたね。夫婦仲も良かった」(同)

 また、田村は熱烈な巨人ファンでもあり、収録中に巨人戦の経過を調べて伝えるのもマネージャーの仕事。巨人が劣勢だと機嫌も下降線だったという。

 元マネージャー氏が傍にいた時期は、ちょうど田村がコメディ路線で新境地を開いた時期と重なっている。

「その頃、正和さんはなかなか主役が取れず、2番手の仕事ばかり来ていました。“なぜ主役が来ないのか”と愚痴をこぼしていましたね。そんな時にTBSが持ってきたのが、小学校が舞台の学園ドラマ。ただコメディタッチだったこともあり、バリバリの“二枚目”だった正和さんは“できるわけないだろう”と。断るために“リハーサルは出ない。ぶっつけ本番ならいい”と言ったんです。そう言えば諦めると思ったんですね。でもTBSはめげなかった」

 こうして始まったのが、「うちの子にかぎって…」である。これがヒットし、田村は後の「パパはニュースキャスター」、そして代表作「古畑任三郎」シリーズと続く「二・五枚目路線」を確立することになるのである。

「僕は失敗続きでね。正和さんには“ダメージャー”と呼ばれたものです」

 と、元マネージャー氏はしんみりと振り返る。

「預かっていた財布を駅で落としたり、酷い話では、正和さんの愛車のセンチュリーをオーバーヒートさせて壊してしまったこともある。修理費用が500万円もかかって、これは当時、正和さんの1カ月の舞台のギャラと同じでした。でも責められることはなかった。昔から石原軍団の『鉄の結束』に憧れて“俺は事務所の人間とああいう関係を築きたいんだな”と言っていましたね。逆に盆暮れには“お疲れさん”と3万円くらい包んでくれてね。本当に可愛がってもらいましたよ」

 もしやれるならまた正和さんの下で仕事をしてみたい――そう語る元マネージャー氏。

 幾多の証言で浮かび上がったもの、それはまさに「全身俳優」に徹した田村の姿であった。

週刊新潮 2021年6月3日号掲載

ワイド特集「パパはニュースメーカー」より

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