大沢啓二、金田正一、西本幸雄…昭和の「暴れん坊監督」が残した人情味溢れるエピソード
昭和から平成にかけて独特の存在感で異彩を放ったプロ野球界の「暴れん坊監督」。グラウンドでは退場を恐れることなく大立ち回りを演じ、ベンチでも選手に雷を落としまくり、時には鉄拳を振るうこともあったが、その一方で、人情味にも溢れ、思わずウルっとさせられるエピソードも少なくない。
涙のサヨナラ劇
危険球を投げた相手投手にパンチをお見舞いするなど、7回も退場になった日本ハム・大沢啓二監督が、“親分”の愛称を地でいく涙のサヨナラ劇を演じたのが、1993年9月8日の近鉄戦である。
事件が起きたのは、1対1で迎えた9回裏だった。日本ハムは無死一塁でエンドランを仕掛けたが、片岡篤史は赤堀元之のワンバウンド投球を空振り。小林一夫球審は「ストライク」をコールし、捕手・光山英和が後逸する間に、一塁走者のマット・ウインタースは三塁に進んだ。
ところが、近鉄・鈴木啓示監督が抗議すると、審判団は判定をファウルに覆した。「冗談じゃねえ。一度下した判定を、相手チームの抗議を受けてから覆すのは、どう考えてもおかしい」。大沢監督の怒りが爆発する。
五十嵐洋一二塁塁審は、小林球審が見えなかったので、自分がファウルと判定したと説明したが、大沢監督は「(二塁から)バットにボールが当たったかどうかなんて、判定できるわけがねえ」と聞く耳を持たず、選手をベンチに引き揚げさせた。
審判団が試合再開に応じるよう説得しても、「ダメだ、帰れ。オレはやらねえ。体張ってやってんだ」と放棄試合も辞さない覚悟だった。
だが、最後は球団社長まで出て来て、「放棄試合はできない」と説得すると、大沢監督は「試合を中断したのは、あくまでワシの責任なんだ。ワシが悪いんだ。こんな至らないワシにこれからもついてきてくれるか」(自著「男の華」、スタジオシップ)と選手たちに頭を下げ、ようやく再開に応じた。
そして、延長10回2死、大沢監督自身も“負けに等しい”引き分けを覚悟した直後、「ここで打たなかったら男じゃない」と思い詰めて打席に立った白井一幸が右越えに「生まれて初めて」のサヨナラ弾。この日敗れた首位・西武に0.5ゲーム差に迫り、一度は消えた自力Vも復活した。
「抗議する監督の姿を見て、絶対にこの監督についていくんだと思った。今日は自分の力だけじゃなく、みんなに打たせてもらった」とお立ち台で目を潤ませながら語る白井の姿に、大沢親分も涙を抑えることができず、「白井は非常に立派だったよ」と声を振り絞るようにして言った。
「ワシはこれ以上お金まで貰えん」
二度にわたってロッテの監督を務めた金田正一も、選手時代も含めて8回の退場を記録した暴れん坊だったが、努力を惜しまない選手には、投球回数や打席数を調整してタイトル獲得をアシストするなど、優しい一面を見せた。
そんな優しさが最大限に発揮されたのが、就任2年目の74年。悲願の日本一を達成した金田監督は「選手を抱きしめてやりたいんや」と喜び、日本シリーズの分配金も「ワシの分は選手に与えてやるよ。ワシを日本一にしてくれたのは、選手たちの力。ワシはこれ以上お金まで貰えん」と辞退を申し出た。
そして、日本一の祝賀パーティーが行われた10月25日に“サプライズ”が起きる。
スピーチの壇上に上がった金田監督は「私の挨拶より先にぜひ皆さんに会わせたい選手がいる。ジョージ・アルトマンです」と紹介した。アルトマンは同年、打率.351、21本塁打、67打点とチームの三冠王ながら、直腸がんの手術のため、8月に戦列を離れて帰米。優勝に立ち会うことができなかった。
だが、「大変な男やった。あんな(偉大な)プレーヤーは二度と現れないやろな」とチームへの貢献度を高く評価した金田監督は、祝賀会の晴れの席で、その功に報いた。
この日の夕方過ぎ、羽田に到着したばかりのアルトマンは、壇上でコーチや選手たちと握手を交わす感激に浸りながら、「優勝オメデトウ。大変ウレシ……」と絶句した。
[1/2ページ]