昭和にも「大谷翔平」がいた? ファンの度肝を抜いた“投手の強打者”列伝

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 メジャー4年目の二刀流・大谷翔平(エンゼルス)の投打にわたる活躍が連日話題を呼んでいるが、日本球界では、大谷登場以前にも、本職の打者顔負けの強打を披露した投手が多く存在していた。

 投手で3番を打ったこともあり、“昭和30年代の大谷”とも言うべき存在が、阪急・梶本隆夫である。1963年5月12日の東映戦ダブルヘッダー第1試合、スコアボードの「3番ピッチャー・梶本」を見たファンは度肝を抜かれた。

「まるで高校野球みたい」「アテ馬じゃないの?」などとスタンドが騒然とするなか、1回表、梶本はそのまま打席に立った。実は、当たりが止まっている中軸打線をテコ入れするために、西本幸雄監督が考えた奇策だった。

 打撃センスの良い梶本は、前年までに7本塁打を記録。5日前の近鉄戦でも、満塁の走者一掃の決勝タイムリー二塁打を放ち、チームの連敗を「8」で止めたばかりだった。

「(3番は)別に意識しませんでした。ある意味では“投手なのだから”と気楽に打てる感じもありましたよ」と語った梶本だったが、やはりそれなりのプレッシャーがあったようで、二度の無死一塁のチャンスにいずれも併殺打に倒れるなど、3打数無安打と音無し。本職も9回を被安打10の6失点で負け投手と虻蜂取らずの結果に終わった。

 ところが、第2試合でも、スタンドのファンは「3番ファースト・梶本」にビックリ仰天することになる。

 正一塁手・戸口天従の打撃不振を受けての抜擢だったが、高2以来の一塁守備となった梶本は、1回1死満塁のピンチで、いきなり吉田勝豊のゴロをトンネル。先制の2点をプレゼントしてしまう。

 3回に自らのバットで尾崎行雄から一、二塁感を抜くタイムリーを放ち、3番打者としての仕事をはたしたものの、結局、この1点止まりで、1対6と完敗。

 結果的に2試合とも奇策は失敗に終わったが、梶本は20年間で1466打数299安打の打率.204、130打点13本塁打の成績を残している。

“最強の9番打者”

 次は、投手で歴代トップの通算38本塁打を記録した金田正一だ。

 国鉄1年目の50年に野手も含めた史上最年少の17歳2ヵ月でプロ1号を放ち、60年のオールスター第2戦では、4対4の9回2死三塁、長嶋茂雄(巨人)のバットを借りて、土橋正幸(東映)から右前に鮮やかな決勝タイムリー。

 また、62年には、1番・丸山完二のほうが打ち取りやすいという理由から、シーズン4度も敬遠された“最強の9番打者”だった。

 巨人移籍後も、68年6月26日の中日戦で、国鉄時代の逆転2ラン以来、6年ぶり2度目の代打本塁打を記録するなど、ここ一番での勝負強さは健在。

 そして、あわやノーヒットノーラン負けの危機を救ったのが、現役最終年の69年5月19日の大洋戦だった。巨人打線は8回2死まで山下律夫に無安打に抑えられ、ノーヒットノーランまであと4人と追い込まれた。

 この場面で、川上哲治監督は金田を代打に起用した。状況を考えると、ファンサービスの意味合いが強かったと思われる。

 だが、打つ気満々の金田は、長身を折り曲げた姿勢でバットを高く掲げると、山下の低め直球に狙いを定め、2ボールからの3球目を上から叩きつけた。

 打球はワンバウンドで山下の頭上を越え、遊撃手のアンディ・ロジャースが二塁ベース寄りに差し出すグラブの先端に当たったあと、中前へ。この瞬間、投手がノーノー阻止のチーム唯一の安打を放つ珍事が実現した。

 金田も梶本同様、20年間通算で2054打数406安打177打点の打率.198となかなかの成績を残している。

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