失踪から60年、ラオスに消えた陸軍参謀「辻政信」は池田勇人首相の「密使」だった

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ベストセラー作家から国政へ

 もっとも、念願の帰国を果たした辻の身柄には、戦犯容疑で英国から懸賞金が掛けられていた。日本の巡査も辻の母親や妻子、兄弟まで尾行し、全国に顔写真が配られていたため、国内でも炭鉱や無住寺に身を潜め、また東京・奥多摩できこりや車ひきをする生活を余儀なくされた。

 戦犯指定が解除されると、辻は書き終えていた手記『潜行三千里』をさっそく「サンデー毎日」で発表。単行本もベストセラーとなった。参謀員は日記をつける習わしがあり、辻も中国大陸にいる間、大型のノート3冊に毎日の行動を記していた。また潜伏中には、自身の参戦を回想した『十五対一 ビルマの死闘』を、その後『ノモンハン』『ガダルカナル』も書き上げている。52年2月刊行の『シンガポール』も大いに売れ、戦記作家として所得番付にも名を連ねるに至った。

 すっかり時の人となった辻は52年6月、中央大学講堂で5千人の学生を前に講演し、「米ソ戦の渦中に入るな」と題して「中立の可能性はないか」「吉田総理は李承晩によく似ている」「既成政党はなぜ自衛自立を叫び得ないか」などと説いた。その頃、戦前から衆議院議員を務め、石原莞爾の盟友でもあった木村武雄によって「導師」の死の詳細を知らされ号泣した辻は、政界進出を打診されて腹を決めている。

 その2カ月後には、金沢の兼六公園で5万人の大聴衆を前に「アジアの黎明」と題して「蒋介石はなぜ負けたのか」「海外へ出ない軍隊を」「民兵で治安を護ろう」などと講演。これが、旧7連隊(金沢)の仲間たちが辻を国政に担ぎ出すきっかけにもなった。

 52年10月の総選挙で、辻は印税収入を資金に無所属で石川1区から出馬、トップ当選した。再選は「バカヤロー解散」後の53年4月。55年には日本民主党から出馬し、トップで3選。さらに58年、岸内閣のもとで自民党から出て最下位で4選を果たしている。

 が、辻は金銭面で岸を追及したため59年4月、党を除名される。そのまま議員辞職すると直ちに鞍替えし、6月の参院選では無所属で全国区から立候補した。選挙戦では岸の地元・山口県で第一声を上げ、「岸はロッキード社から金をもらった」と徹底的に攻撃。結果は全国3位の快勝だった。

 辻は鳩山一郎政権下の55年9月、中ソ訪問議員団のメンバーとして北京を訪れ、周恩来と会談している。2度目の海外視察は57年1月で、中近東14カ国を視察し、最後に北京に立ち寄って周と再び会談。この時に撮影したチトー、ナセル、周恩来との写真は複写し、60年前の「死地への旅」にも携行していた。

池田勇人からの「餞別」

 61年4月、参議院に40日間の休暇願を提出した辻は、視察目的でインドシナ半島へ渡航する。出発前夜にはいつも通り自宅で夕食をとりながら、家族には「参院の東南アジア旅行の順番が当たった」とだけ伝えていた。主たる目的はベトナム戦争を回避するためホー・チ・ミンと会談することだったが、身内にもその“重大任務”については告げていなかったのである。トランクの荷物の中には、ラオスの殿下夫人へ贈るためのネックレス2本とともに、針と糸も入っていた。

 この裁縫用具については郷里の山中温泉にある高級旅館「かよう亭」の上口(かみぐち)昌徳社長が当時、議員会館を訪ねた際、「僧衣を現地で縫うために持っていく」と聞かされている。前回の潜伏生活の体験から必要性を感じていたのだ。

 そもそも辻は、いつ東南アジア視察を思い立ったのか。諸説ある中で毅氏は、

「その年の3月、私が東大に合格したことで父は『これで息子は、オレが死んでもメシが食える』と安堵し、渡航する決心がついたのだと思います」

 そう推し量る。一方で当時、池田勇人首相は、6月に米大統領ジョン・F・ケネディとの会談が予定されていた。ケネディは就任後の1月にベトナム、ラオスなどインドシナ問題に取り組む方針を打ち出しており、辻は渡航前に池田と“ラオスに入ってインドシナの情報を報告する”約束を交わしている。辻は日頃から「アジアはアジア人の手で、ベトナムとラオスはホー・チ・ミン政府でまとめることだ」と考えていた。

 ラオス行きはあくまで辻本人の意思によるものだったが、池田はその資金として2度に分けて200万円を手渡している。辻はまた、池田の秘書だった伊藤昌哉に、

「南方の飛行機は頼りない。もし事故でもあったら、僕の秘書の面倒を見てほしい」

「ラオスを通ってハノイへ出たい」

 などと話していた。出発の朝は、常々口にしていた「軍人は戦になったら昼も夜もメシが喰えんから朝食べておく」との主義通りに朝食を平らげ、公用車に妻子と同乗して飛行場へ。毅氏は、

「父は、飛行機のタラップを上がってからの様子がいつもと違いました」

 と、こう述懐する。

「機内に姿が消えて間もなく、父は入口のところに戻ってきて、私たちに手を振ったのです。それが4回ありました。戻ったかと思うと、またタラップの所に出てきてこっちを見て、何か言いたげに……。私たち家族が父の顔を見たのは、これが最後でした」

 辻は200字詰めの原稿用紙に日記を綴っていた。4月4日、香港に到着し、1時間後サイゴン行きに乗り継ぐ。旅行中の日記によると、同日にサイゴンの日本大使館で大使と会い、次の日はゴ・ディン・ジエム大統領と会談。その傍ら、旧知の人からベトナムの政治、経済、軍事について聴き、町を歩いて民心を視察する。サイゴンには7日まで滞在し、翌日プノンペンに飛ぶ。

 4月10日、プノンペンからバンコクへ入る。いずれの地でも大使と会い、政情やラオス内戦の様子などを聴く。バンコクにはかつてのタイ人の部下がおり、3派に分かれたラオスで左派のパテト・ラオ軍にソ連・中共の支援が強まっていることなど、インドシナの軍事情報を精力的に収集した。

 バンコクには13日まで滞在、大使館の手配でビエンチャンまで飛行機で送ってもらう。12日の日記には、

〈いま池田総理への報告書を書き上げた〉

 とある。ベトナム、カンボジア、タイで得た相当な情報を書き連ね、翌13日には大使に航空便での発送を頼んだとみられるが、無事池田のもとに届いたかどうかは今もって定かでない。

 前出の池田の秘書・伊藤は「辻個人の調査で、池田は依頼していない」と語っているのだが、“公務”だったことは日記からも明白である。同じく前出の「かよう亭」社長の上口氏は、議員会館の辻の部屋に池田の別の秘書が「池田からの餞別です」と、特製の日本酒を届けに来た場に偶然、居合わせている。製造元は広島・竹原の池田の実家で、忠義の「忠」に勇人の「勇」、「忠勇」という銘柄。特別な人にしか渡さない、いわば「誓いの印」の酒だった。秘書はこの時「池田から“ご無事でご報告をお待ちしています”とのことです」と告げ、封筒も渡して去っている。

 この時、残りの100万円が手渡されたのだろう。バンコクのホテルで最後の報告書をまとめ上げた辻は大役を果たし、さぞ肩の荷が下りたに違いない。

「辻先生は私に、戦争を回避するためハノイでホー・チ・ミンと会い、そのあと昆明、香港を経由して北京に入り、帰国する予定だと話していました」

 上口氏はそう明かす。バンビエンを発ってジャール平原でパテト・ラオ軍に捕えられた辻の消息については、のちに赤坂の部下だったラオス兵の一人が、

〈3人の兵が平原で辻を銃殺し、近くに埋めた〉

 と、信憑性のある証言をしている。またハノイ駐在のラオス大使も、日本の商社員に「ジャール平原で捕まった辻は、パテト・ラオに殺された」と語っている(田々宮英太郎『権謀に憑かれた参謀 辻政信─太平洋戦争の舞台裏』参照)。

 辻の銃殺を指揮したのは上級将校ではなく、一地区長の判断だったとの情報もある。言葉が通じない中、何をもって辻をスパイと決めつけたのか。毅氏は次のように推測する。

「父を殺したのは軍事産業の手下の者ではないでしょうか。ベトナムでの戦争回避に動いた父が、おそらく邪魔になったのです」

 一方で、監禁されていたカンカイ村の司令官の家から辻が脱出し、ビエンチャンに引き返そうとしたところで再び捕まったとの説も消えていない。ともあれ、現職の国会議員が国交のあるラオスでスパイ扱いされて殺されたという「事件」が起きながら、政府は辻の行動を“私的な視察旅行”と見なしたまま、60年経っても事実関係を調べようとしない。国を挙げて遺骨収拾に取り組むべきところ、今なお遺骨は探せない状態である。(文中一部敬称略)

早瀬利之(はやせとしゆき)
作家。昭和15年、長崎県生まれ。昭和38年、鹿児島大卒。著書に『タイガー・モリと呼ばれた男』『石原莞爾 満州ふたたび』『敗戦 されど生きよ』などがある。

週刊新潮 2021年5月20日号掲載

特別読物 「失踪から60年目の真実 初めて明かされる直前『日記』 ラオスに消えた『辻政信』」は『池田勇人首相』」の“密使”だった」より

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