失踪から60年、ラオスに消えた陸軍参謀「辻政信」は池田勇人首相の「密使」だった
ノモンハン事件やマレー上陸作戦などを指揮し、「作戦の神様」と称された陸軍参謀の辻政信。戦後は潜伏生活を経て国会議員に転じたが、1961年、視察先のラオスで消息を絶つ。以来60年、作家の早瀬利之氏が初めて明かされる「日記」をもとに、その謎に迫った。
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東京・世田谷区松原にある辻の自宅に、白いトランクが届けられたのは消息を絶ったひと月後の1961年5月下旬だった。送り主は外務省。戦後も国会議員として海外出張が多く、1年の3分の1を渡航先で過ごしていた彼の愛用トランクは半畳ほどの大きさで、ベージュの牛革で角が縁どられ、所々擦り切れていた。
辻の二男・毅(たけし)氏(78)が回想する。
「当時は兄が父の秘書をしていた頃で、私は大学生になったばかりでしたが、『大使館から預かっていた物を送ってきましたからお返しします』と一筆添えられたトランクを開けて唖然としました。というのも、中には衣類とともに、父が最初に到着したベトナムのサイゴン(現ホーチミン)のホテルで記した61年4月4日から、タイ・バンコク滞在中の4月12日までの日記が数冊、入っていたのです」
ところが、長男が父の消息を問い合わせると、外務省からは予期せぬ返事が。
「『そちらで勝手に調べてください』と、素っ気なく電話を切られてしまいました。母も私たち兄弟も“公務で渡航したのになぜこんな仕打ちを受けなければならないのか”と、泣き崩れてしまったのを思い出します」
そうした遺族の思いは現在も変わることはない。今回、二男がその存在を初めて明かしてくれた「滞在日記」では、辻の渡航が時の総理の“特命”だったことが、確かに裏付けられていた。
外務省から冷たくあしらわれた辻家では、父の消息に繋がる手掛かりを探すべく、借金で工面した150万円を手に長男が足取りをたどった。まず香港へと飛び、当地で乗り継いでサイゴンに入って大使館関係者と面会。続いてカンボジアのプノンペン、バンコク、ラオスのビエンチャンと足取りを追った。
が、各国の日本大使館や邦銀の現地支店長などを訪ね歩いても、手掛かりは何ひとつなし。およそ1週間にわたる調査を終えた長男は、悄然として帰国せざるを得なかった。
外務省から届けられたトランクは、ビエンチャンにある日本大使館からタイ経由で送り返されていた。辻が、東京銀行ビエンチャン支店行員兼通訳だった赤坂勝美とともに、大使館員の運転するジープでビエンチャンを出発したのは61年4月21日の朝だった。
同行者の赤坂は仏印のビンで敗戦を迎えた。当時は第14軍86連隊通信隊の伍長だったが、敗戦を知り脱走してラオスに入り、その後は自由ラオス軍の将兵として植民地奪還を目指す仏軍と交戦している。ラオスの奥地を最も知る日本人であり、辻が消息を絶った2年後には現地の日本大使館に職を得ている。赤坂は引き続き、かつて部下だったラオス兵とともに辻の遺骨を捜していたが、78年8月、突然ラオス政府から「好ましくない言動をした」との理由で国外退去を命じられ、日本に帰国している。
辻と赤坂を乗せたジープはビエンチャンから北へ向かい、ルアンプラバン街道(13号公路)に到着する。そこで赤坂の友人に紹介された2人の青年僧と合流。運転手と赤坂に別れを告げ、辻自身も僧侶に扮して3人で歩き始めた。辻はパスポートや周恩来と一緒に納まった写真、旅行小切手や衣類、そして日本から持参したパールのネックレスなどを風呂敷に包んで青年僧に持たせ、自らはズダ袋にバンコクで買った真鍮の仏像を入れて右肩に掛け、さらに北を目指して行った。
当時のラオスは内戦が続き、右派・左派・中道の3勢力が争っていた。辻が消息を絶ったおよそ2カ月後、産経新聞が中立派のプーマ殿下にインタビューしており、その中で殿下は、
「辻氏はバンビエンの我が軍司令部を訪れ、その後ジャール平原に行った」
などと答えている。また同じ中立派首脳のフォンサバン内相も、翌月の同紙でこう語っている。
「昨年5月、バンビエンにいた時、辻氏がジャール平原に行く許可が欲しいと訊ねてきた。パスポートを確認して通行証にサインした」
なぜ、ビエンチャンから100キロ北のバンビエンへと向かったのか。それはジャール平原のカンカイ村から、ハノイ行きの飛行機が飛んでいたからである。現に辻はフォンサバン内相に対し、「ホー・チ・ミンに会いにハノイへ行く」と明かしていた。
ところが、村に到着した辻は、左派のパテト・ラオ軍に捉えられてしまう。スパイの嫌疑をかけられた彼は、61年6月頃には同軍司令官の自宅に監禁されていたことが、通訳を務めた中国人カメラマンの後年の証言で明らかになる。辻の足跡は、このカンカイ村で消えていた──。
僧侶や大学教授に化けて
辻は1902年、石川県の東谷奥村(現在の加賀市)に生まれ、山中高等小学校卒業後、17年に難関の名古屋陸軍地方幼年学校に入学した。卒業時は首席で、東京の陸軍中央幼年学校、続く陸軍士官学校もともに首席で卒業、銀時計を賜っている。28年には原隊の金沢師団歩兵第7連隊に所属しながら陸軍大学校を受験。成績優秀の「軍刀組」で卒業した。
初戦は32年1月の第1次上海事変で、中隊長として出撃し、足を撃たれたものの再度の出撃を果たしている。翌年秋、陸軍参謀本部付。幼い頃、往復12キロの通学で足腰を鍛えただけあって、前線では「参謀の見本」と呼ばれた。ちなみに陸軍では最多となる42回の異動を重ねている。
その辻が、生涯にわたり信奉していたのが石原莞爾である。
36年5月、関東軍参謀部付となった辻(当時中尉)は挨拶を兼ねて東京の参謀本部を訪問。作戦課長だった石原と対面し、その夜は高田馬場の石原宅に招かれ、満州建国と満州国協和会の意義を聞かされた。石原をやり込めてやろうと意気込んでいたものの、
〈満州建国の精神は民族協和に置き、日・満・漢・蒙・鮮の5族は日本を中核として相互に協和融合する。その理想を達成するために満州帝国協和会を使った〉
そう聞かされ、考えを180度転換させられた。以後、辻は石原を「先覚の導師」と呼び、石原の東亜連盟運動に加担していく。
実戦での辻は機略縦横にて勇猛果敢、奇襲戦法を得意とする辣腕の参謀で“何をしでかすか分からない男”だった。41年12月8日のマレー・シンガポール攻略作戦を立案し、自ら前線を指揮。織田信長の桶狭間、上杉謙信の川中島の戦いを思わせる奇襲作戦は的中し、英軍を駆逐して世界を驚嘆させた。
前線に立ったのは32年1月の上海事変から45年6月5日、バンコクの第39軍司令部に作戦主任参謀長として着任するまでの13年余り。バンコク着任時はビルマで負傷した右腕を首から吊り、青竹の杖をついていた。初陣となった上海での2発をはじめ、前線で計7発の敵弾を受けており「ビルマでは皮肉にも日本製の銃でゲリラ兵に撃たれた」とも語っている。
二男の毅氏によれば、
「子どもの頃、風呂場で父の背中を流した時、傷口が無数に突起していたのを覚えています。体に受けた7発の弾の小さな破片が、まだ沢山入ったままで、触るとデコボコしていました」
終戦をバンコクで迎えた辻(当時大佐)が、タイの僧侶に扮して潜伏生活に入ったのは玉音放送の2日後である。潜伏を勧めたのは第18方面軍の浜田平(ひとし)参謀副長だった。
辻の著書『潜行三千里』によると、司令官室で行われた最後の会議で、浜田は静かに「辻君、頼む。これからの日本は十年二十年忍ばねばならぬ。できることなら中国に潜行し、アジアの将来のために新しい道を開いてくれんか」と切り出したという。辻は「大陸に潜り、仏の道を通じて日タイ永遠のくさびになろう」と決意して黄衣を纏い、僧侶出身の特攻志願兵7人とともに8月17日、タイに潜入。そのひと月後、浜田は自決した。
最初に身を隠したのは、英軍の爆撃で破壊された寺の境内にある小さな日本人納骨堂だった。現地では「青木憲信」という偽名を用いていたが、9月15日にはその行方を追う英軍の先遣隊がバンコクに着陸。ほどなくタイの警察も寺を見張り始めたため、一行は暗闇の市街に散ることとなった。
ラオスとの国境の町ウボンを目指した辻は、メコン川を渡って対岸のビエンチャンに到着。そこから再び川を下る。下船後は陸路サハナケットへ。ベトナムの東海岸沿いにフエからビンを経て、ハノイへ向かった。そして空路で昆明に。46年3月には重慶に入り、以降2年余りにわたり、国民党の庇護のもと大陸での潜伏生活に入ったのである。
48年5月16日には、北京大学の教授に扮して上海からの引揚げ船に乗り、10日後、佐世保に到着。船内では永井荷風の甥と隣り合うなどし、この時の心情を『潜行三千里』では、
〈初めて歩一歩埠頭の土を踏んだとき、人目につかぬようにソーッと一握りの土をすくいあげて香りを嗅いだ。六年ぶりに嗅ぐ祖国の土の香である。国敗れたれど山河は残っていた〉
そう記している。
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