コロナ禍で呑気に過ごすことは権力を助けることに(古市憲寿)

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 3度目の緊急事態宣言が発出されるというので、その前に百貨店に行ってきた。ショッパーを両肩に下げ待ち合せ場所に着くと、友人に笑われてしまった。「百合子の次に緊急事態宣言を楽しんでいる」と。

 確かに1年前の宣言直前も、急いで百貨店に行って、現金を持たないのに小銭入れを買ったりしていた。まだ新型コロナのことがよくわかっていなかったから、換気がいいはずの映画館の座席の一角を買い占めて、他人と距離を取って映画を観たりもしていた。「大変だ」と騒ぎながら、宣言をちゃっかりイベントごとにしているのである。

 この1年あまり、コロナに対する行政の対応に不満を持ちながらも、それなりに楽しく過ごしてしまった。友人とオンライン脱出ゲームに興じたり、Clubhouseにはまったり、ステイホーム生活を満喫している。

 過剰なストレスで思い詰めてしまうよりもいいと思うが、こうした呑気さはともすれば権力と親和性を持ってしまう。

 たとえばアジア太平洋戦争の最中、国の方針に迎合した文学作品には、どのようなキャラクターが登場したか。現代の常識からは、愛国的な熱血体育教師のような人物を想像してしまう。実際、数々の戦時中の手記を読む限り、木刀を持って非国民などと喚き暴力を振るうような男も存在したのだろう。

 しかし大塚英志さんの新刊『「暮し」のファシズム』(筑摩選書)によれば、体制協力的な作品には「ゆかい」で「のんき」な「飄々」としたキャラクターが繰り返し描かれていたのだという。

 太宰治の短編小説「十二月八日」が象徴的である。主人公の「夫」は、緊張感もなければ、頼りがいもない。しかし戦争に反対するわけでもない。あくまでも呑気に日常を送るのである。

 有事において、国家からすれば呑気な人々というのは非常に都合がいいのだ。与えられた環境の中で幸せを見つけ、周囲にも安心感を与えてくれる。むしろ熱烈な愛国主義者のほうが国家にとっては迷惑かもしれない。その過剰さが、国家の方針の問題点を露呈させてしまうからだ。

 現代でいえば、潔癖症的にゼロコロナを訴える人が張り切るほどに、常識人は「それって無理だよね」と気が付くだろう。

 日本がコロナを根絶しようと思ったら、憲法違反覚悟で法律を改正し、重罰を科す外出禁止令を設けた上で、監視カメラやスマートフォンの位置情報などを総動員し、徹底的な監視国家になるのがいい(無理そうでしょ)。

「コロナ撲滅のためには、外出禁止に厳罰を設けるべきだ」と騒ぐ人よりも、「Clubhouseって楽しいよね」と微笑む人のほうが、結果的には翼賛体制に手を貸してしまう。皮肉だ。

 ただ呑気さというのは、庶民の知恵でもある。すぐ既成事実を受け入れる日本流の悪しき現実主義だと丸山眞男には怒られるかもしれないが、正直、社会の全てが好転するような画期的なアイディアは思いつかない。だから今日もネットショッピングに精を出す。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2021年5月20日号掲載

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