「青天を衝け」ファンにオススメの名城リスト 渋沢栄一ゆかりの地も

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 昨年の「麒麟がくる」に続いて好調な大河ドラマ「青天を衝け」。渋沢栄一個人の物語もさることながら、鋭く描かれているのが緊迫した幕末の情勢で、その背後には、激動の舞台になった数々の名城が存在している。感染が落ち着いたらぜひ行脚に出かけたい。

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 NHK大河ドラマ「青天を衝け」がおもしろい。日本資本主義の父・渋沢栄一自身の物語と並行して、江戸幕府の内幕や明治黎明期の情勢が描かれているからだ。江戸時代の価値観が揺らぎ、日本が大きく変化していく様子がわかる。関連する諸藩所縁の地を訪れたくなった人も多いだろう。そこで今回は、幕末の城事情とともに、登場人物ゆかりの城を紹介したい。

岡部藩の城、岡部陣屋

 血洗島(ちあらいじま)(現在の埼玉県深谷市)の農家に生まれ、若き頃から商才を発揮した渋沢栄一。17歳の時、父の名代として岡部藩庁へ出向き、生涯忘れがたい屈辱を味わった。幕府の権力主義に不信感を募らせ、攘夷思想に傾倒するきっかけとなる出来事だった。

 このとき栄一が訪れたのが岡部陣屋(埼玉県深谷市)だ。「陣屋」とは小藩の領主が構えた実質的な城のこと。江戸時代、城を持てたのは概ね3万石以上の大名だけで、それ以下の無城大名などは陣屋を構え、そこに藩庁を置いていた。幕末の岡部藩は2万250石の無城大名であったため、岡部陣屋を構えていたのだ。

 岡部藩が明治初年に本拠を三河へ移転したこともあり、現在は岡部陣屋の名残はほぼない。砲術家の高島秋帆が幽閉されていたことを示す「高島秋帆幽囚の地」の石碑が立つ程度だ。しかし、近くの全昌寺には長屋門が移築されており、大名らしい立派な構えを伝えている。

 代官や郡代などの役人が政務を行った建物も陣屋という。代表例が高山陣屋(岐阜県高山市)だ。1692(元禄5)年に飛騨一円が幕府の直轄領になると、高山城は廃城となって高山陣屋が築かれ、江戸から役人が派遣された。全国に約60カ所あった郡代・代官所の中でも、建物が現存するのはここだけだ。玄関は、幕府の使者など高い身分の来客者専用。駕籠からそのまま屋敷内へ入れる式台がある。吟味所や御白洲など、犯罪者が取り調べを受けた場所も復元されている。

海防のための城

 1853(嘉永6)年にアメリカ人ペリーの艦隊が来航して開国を迫ると、江戸にも緊張が走った。ドラマ内で印象的だったのは、危機感を覚えた老中首座の阿部正弘が、絵図面を広げ品川台場(東京都港区・品川区・江東区)の建設を指示する場面だ。再来したペリーは、品川台場に圧倒されていた。

「台場」とは砲台を伴う防御施設。ペリー来航後、全国各地の沿岸部には海防強化のため約800~1000カ所の台場が設置された。そのうち、幕府が江戸湾を警備すべく品川沖に築いたのが品川台場で「お台場」の地名の由来だ。

 11カ所に計画されたが、財政難のため完成したのは5カ所のみ。現在は第三台場と第六台場が残る。第六台場は海上保全され立ち入り禁止だが、第三台場は台場公園として整備され、散策可能だ(現在は五輪準備工事に伴い閉園中)。土塁を囲む石垣が特徴で、幕末から明治時代に多い谷積を中心に、江戸初期の城と同じ積み方も混在。軟弱な地盤への石垣構築は、基礎工事からかなりの技術を要し、日本の技術水準の高さを示す土木遺産ともいえる。

 各藩が築いた台場のうち、原形をほぼ保つ唯一のものが、鳥取藩の由良台場(鳥取県北栄町)だ。総指揮者は、高島秋帆から西洋砲術を学んだ武信潤太郎。高さ4・5メートルの土塁で囲まれた遺構がほぼ完存する。丸岡藩は、ペリー来航の前年に丸岡藩台場(福井県坂井市)を構築。断崖絶壁で知られる名所・東尋坊から約4キロの海岸沿いにあり、日本海に睨みをきかせる立地から幕末の緊迫感を味わえる。

 1615(元和元)年の武家諸法度公布後、城の改修や修繕にも厳しい規制がかかり、特例を除き城は新築されなかった。しかし幕末には、外国からの攻撃に備えて築城を許された城がある。そのひとつが松前城(北海道松前町)だ。

 ロシア船がたびたび姿を見せるようになると、幕府は松前藩に警備を目的として築城を命じ、それまでの藩庁の福山館を拡張する形で、1854(安政元)年に完成した。城壁のほとんどが鈍角に折れた、江戸時代の軍学に基づく複雑な設計だ。三の丸には海に向けて7基の砲台が置かれ、城外にも9砲台、25門の大砲が配備されていた。

 日本最西部の島々を所領とする五島藩の福江城(長崎県五島市)も、1863(文久3)年に完成した海防目的の城だ。石田陣屋が藩庁だったが、外国船の来航が頻繁になると幕府から築城を許可された。城の南・北・東側は海に面し、主要な曲輪の隅には石火矢台場という砲台が配置された。現在も、城内から直接海に出られる舟入を三の丸東隅部に見ることができる。

慶喜、御三卿、御三家の城

「青天を衝け」では、最後の将軍、徳川慶喜の境遇や苦悩が丹念に描写されている。水戸藩の9代藩主・斉昭の七男で、誕生は江戸の水戸藩邸だが、斉昭の教育方針により水戸で育った。

 1609(慶長14)年に家康の十一男・頼房が初代藩主となって以降、水戸城(茨城県水戸市)が水戸徳川家の居城だった。頼房が城と城下町を拡充し、二の丸に御殿を建造。3重5階で天守代用の三階櫓も二の丸にあり、空襲で焼失するまで水戸城のシンボルだった。県立水戸第一高校がある場所が本丸跡で、敷地内の薬医門は移築された現存建造物だ。本丸と二の丸の間の空堀にはJR水郡線が走り、その大きさを伝える。

 三の丸には、斉昭が開いた藩校の弘道館が現存する。慶喜が少年時代に学問や武術を学んだ場所で、大政奉還後に数カ月の謹慎生活を送った部屋も残る。2020(令和2)年2月には、正門にあたる大手門が竣工した。佐竹氏が城主だった、1601(慶長6)年頃に建てられたとされる。

 慶喜は1847(弘化4)年に御三卿・一橋家を相続し、江戸へ移った。御三卿とは、江戸中期に徳川将軍家から分立した三つの大名家(田安、清水、一橋の各徳川家)のこと。将軍家に後継者がいない場合、御三卿から将軍が選出された。

 御三卿の屋敷は、徳川将軍家の居城・江戸城(東京都千代田区)の北の丸やその付近にあった。北の丸公園に現存する田安門と清水門は、それぞれ田安家と清水家の屋敷の門として使われ、いずれも高麗門と櫓門、方形の空間(枡形)でつくられる立派な枡形門だ。

 田安門は地下鉄の九段下駅から日本武道館へ向かうときにくぐり抜ける、大きな門だ。渡櫓は関東大震災で崩壊し東京オリンピックを機に復元されたものだが、その下の櫓門は現存建造物。高麗門と土塀は門扉の肘坪に、1636(寛永13)年の銘文がある。清水家の表門が、北の丸の北東の清水門。枡形を二つ並べた二重枡形虎口だ。高麗門と左右の土塀は、肘坪金具の刻印から1658(万治元)年の再築と推察される。

 一橋徳川家の屋敷は丸紅新本社ビル一帯にあり、現在は石碑が建っている。一ツ橋は江戸城の外堀に架かる橋のひとつで、一ツ橋門の石垣がよく残る。

 御三卿より格上で、将軍家に次ぐ地位にあったのが、御三家(尾張、紀州、水戸の各徳川家)だ。14代将軍・徳川家茂(慶福)は紀州徳川家の出身で、江戸で生まれ育ったが、将軍就任までは和歌山城(和歌山県和歌山市)を居城とする紀州藩の13代藩主だった。

 和歌山城の天守は空襲で焼失後、1958(昭和33)年に再建された。鬼瓦には葵御紋が燦然と輝き、妻飾に銅板が用いられているのも、徳川家の城に見られる傾向だ。1585(天正13)年に紀州を平定した羽柴秀吉の命令で築かれ、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が大改修し天守を建造。1619(元和5)年には徳川家康の十男・頼宣が城主となり、御三家にふさわしい城にすべく大拡張した。

 唯一の現存建造物である岡口門は、頼宣が1621(元和7)年に建造したと考えられる。全長40メートルの土塀が北側に続く櫓門で、1796(寛政8)年までは大手門だった。

 2006(平成18)年復元の御橋廊下は、紅葉渓庭園(西の丸庭園)のある西の丸の南東隅から二の丸へ通じる廊下橋。高低差が3・4メートルほどあるため、橋が傾斜している。床が鋸歯状なのは、滑らないための工夫とされる。

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