「あまり怒らずできた」と語った松山英樹 マスターズ創始者すら苦しんだゴルファーの“永遠の課題”とは(小林信也)
松山英樹がマスターズを制覇、日本人選手初の偉業を成し遂げた。
「この3日間、あまり(心に)波を立てることなくあまり怒らずできた。明日はそういうことが大事になってくると思う。それができればすごくチャンスがあるんじゃないかと思います」
1イーグル5バーディの65、通算11アンダーで首位に浮上した3日目を終えて、松山は言った。
あまり怒らずできた。
この一言に、快挙への期待を感じた……。
「ゴルフの最大の敵は怒りである」
昔からずっと、ゴルファーはその戒めと向き合ってきた。しかし、怒りを制するのは容易ではない。
マスターズの生みの親、ボビー・ジョーンズにとっても怒りは厄介な敵だった。
6歳でゴルフを始め、9歳でアトランタのジュニア選手権で優勝、14歳で全米アマに初出場した。この全米アマの予選前半18ホールを終えて、ジョーンズは157人中トップに立った。
「南部から来た子どもがリードしているぞ」
それが、天才少年ジョーンズがゴルフ界に衝撃波を起こした最初だった。
後に「球聖」と呼ばれたジョーンズだが、達観への道は険しかった。
「貴君の短気が改まらないかぎり、USGA主催の競技には二度と出場させない」
USGA(全米ゴルフ協会)会長のジョージ・ウォーカーから手紙を受け取ったのは、ジョーンズが19歳の時だ。杉山通敬著『マスターズを創った男 球聖ボビー・ジョーンズ物語』(廣済堂出版)に書かれた経緯を参考にさせてもらう。
その年1921年、全英オープンに出場したジョーンズは、前半2ラウンドはまずまずで首位に4打差。ところが3ラウンド目にセントアンドリュース・オールドコースの洗礼を浴びた。アウトで46を叩き、10番パー4で6を叩いた。続く11番パー3でも1打目をバンカーに入れ、苦労してパットが狙える位置に出すまで5打を数えていた。
(また6、もしかして7!)
そんな思いが全身を熱くし、怒りを抑えられなかった。
ジョーンズはボールを拾い上げ、スコアカードを引きちぎり、そのままコースを離れてしまった。
パーおじさんと向き合い
帰国してまもなく、全米アマでも短気を起こした。マッチプレー2回戦の終盤、勝負のかかったアプローチをミスしたジョーンズが9番アイアンを放り投げた。それが観戦中の女性に当たった。USGA会長の手紙にはそういう背景があった。
ゴルフ界には「オールドマン・パー」という有名な話がある。ジョーンズが11歳の時、「存在に気づいた」と言われるコース上に住む「パーおじさん」の逸話だ。いわばゴルフ場の神様にいつも見られている、恥ずかしくないプレーをするという意味だ。しかし、ジョーンズがパーおじさんに愛されるには長い年月が必要だった。
1930年、史上初のグランドスラム達成をかけて臨んだ全英オープンでジョーンズは変化と成長を試される場面に遭遇した。
パー5の8番。わずか15ヤードのアプローチを2度も失敗、やけになって無造作に打った30センチのパットも外して7を叩いたのだ。だが、そこで目が覚めた。
「7でよろめいたが、それが私の肉体に決定的な打撃を与えたわけではなく、むしろ精神力に火をつけたのだ」(ジョーンズ)
その後も難しいバンカーに打ち込むなど、苦しいゴルフが続いた。優勝を争うライバルたちのスコアはわからない。ジョーンズは、パーおじさんと向き合い、怒りを抑えてプレーし続けた。結果、最終ラウンドは75、見事優勝を果たした。
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