小倉智昭が明かす「とくダネ!」最大のピンチ 「相撲協会とやりあって大変なことに」

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 3月末で22年の歴史に幕を下ろしたフジテレビの「とくダネ!」。スタート時から番組の“顔”を務めてきたキャスターの小倉智昭氏(73)は、テレビに映っていない時間帯をどう過ごしていたのか。番組最大の危機からコロナまで――小倉氏が初めて明かす舞台裏。

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 今も生活のスタイルはそれほど変わっていません。変わったといえば、朝8時~10時の間、自宅にいる日が多くなったことくらいでしょうか。喪失感とか、ポッカリ穴があいたといった感じもない。自分が想像していた以上に長い間、好きな仕事ができたということで、喪失感よりはむしろ達成感のほうがあるのかもしれません。

〈去る3月26日の放送で最終回となったフジテレビの情報番組「情報プレゼンター とくダネ!」。1999年4月のスタートから実に22年にわたってメイン司会を務めてきたのは、キャスターの小倉智昭氏である。同番組が更新し続けてきた「同一司会者による全国ネットのニュース情報番組」の放送回数最多記録は、5646回でストップすることになった。〉

 毎朝起きる時間は、最近は午前3時でした。「とくダネ!」にはオープニングトークがあります。回を重ねるごとにだんだん長くなって顰蹙を買ったりもしましたが、あれは喋る内容を全部自分で決めていたんです。しかも、カンペとかメモなども一切持たずに話す。だから、何をどんな感じで喋るのかというのを覚えたり、確認したりする時間が必要だった。それで毎朝早く起きていたのです。

 フジテレビへの入り時間は最終的には6時になりましたが、初めのうちは5時くらいには入っていました。で、放送が終わったら、予定がない日は必ず、フジテレビの18階に上がって本屋に入ります。それからお茶を飲んで、12時前にはフジテレビを出る。

 そこからウロウロして、自分の買い物をすることもあれば、映画を観に行くこともある。僕は飲食業などのサイドビジネスもやっているので、そっちを見にいくこともある。一番滞在時間が長いのは、自分の仕事場です。僕は「スタジオ」と言っているんですが、そこには映画とか音楽のソフトとか、書庫もあって本もたくさん保管しています。大画面で、大きな音で映画も観られるので、そこへ行って過ごすことが多い。そこに行くのが一番落ち着くし、ウチのカミさんでも来られない場所なんです。カミさんは中がどうなっているのか知らないし、鍵も持っていない。だから一度来た時「へぇ~! こうなってるんだ。ここの大画面でオリンピックを観たらいいだろうね」と言われてね。「遊びに来たら?」とか、まるで夫婦とは思えないような会話をしていますよ。最近は「小倉ベース」などと呼び、そこでインタビュー取材に応じることも多くなっちゃった。するといろんなものが撮影されてしまう。それがあんまりね、頭の中を見られているような感じがしてありがたくないんだよね。

 夜寝るのは、だいたい午後11時か11時半。だから睡眠時間は日々、3時間半くらい。僕はもうずうっと、それで大丈夫なんです。「とくダネ!」の前には「どうーなってるの?!」とか「ジョーダンじゃない!?」もやっていて、それも結構早く入っていたので、早起きしだしてざっと30年ということになります。

 その仕事が今、なくなったわけですよね。それでも3時とか4時にはいったん目が覚めるんです。もう一度寝ようと思うんですが、結局はどんなに遅くても6時くらいには起きてしまう。

「もたないかもしれない」

〈小倉氏は朝の体調チェックを欠かさない。体温、血圧、血糖値。コロナ禍の今は血中酸素濃度まで測っているというが、その背景に以前、大病を患ったことがあるのは言うまでもない。小倉氏が初期の膀胱がんであると番組で公表したのは2016年。18年11月には膀胱全摘出手術を受けることを明らかにした上で休養に入り、翌年1月7日に復帰。フジから「世代交代」、すなわち番組終了の話を持ち掛けられたのは復帰の約1年2カ月後のことだったという。〉

 フジテレビからは「オリンピックを花道にして20年9月で世代交代して欲しい」と言われました。しかし結局、オリンピックが1年延期になったので、今年3月まで引き続きやることになったわけです。

 実は昨年12月からの約3カ月間はちょっとヒヤヒヤしながら「とくダネ!」に出ていました。というのも、12月にCTスキャンを受けたところ、がんが肺に転移している疑いが出てきた。さらに、腎臓から下のがんが分かる尿の細胞診を受けたら、2回続けて5段階のうち4という評価だった。4は「がんがどこかにある」ことを示す数字なので、先生は膀胱の周りでがんが再発しているかもしれないと言う。そして、その場合は抗がん剤治療をやらなければならない、とも。先生からは、「とくダネ!」が番組終了する3月末から1カ月ほど抗がん剤投与のために空けておいて下さいと言われていて、フジの人にもその話はしてありました。「ひょっとしたら3月までもたないかもしれない」と。抗がん剤投与の時期が早まる可能性もあり、そうなれば3月末までテレビに出続けるのは難しくなっていたでしょうから。

 ただ、最終的には細胞診の数字が4から3になった。それもあって「経過観察」ということになり、一応、ホッと胸をなでおろしたところです。

〈病を養いながら「とくダネ!」司会者としての22年間を“完走”した小倉氏。最終回では奥さんからの手紙が披露され、目を潤ませる場面もあった。〉

 番組を始めた時はこんなに長いこと続くと思っていませんでしたし、正直なところ、一体何年もつだろうかという感じで始めたんですよね。フジテレビに乞われる形であの時間帯を持たせてもらったのですが、僕は条件として「番組は冒頭、僕がスタジオに立っているところから始めたい。そこで何か喋らせてくれないか」とお願いした。だからオープニングトーク中はみんな何も言えなかったんです。たとえ僕が傍若無人に振る舞ったとしても。一番ひどい時には10分くらい喋っていましたね。そうやって長々と僕が喋ると、他の取材VTRが飛んでしまうので、スタッフからは恨まれていたと思います。

「とくダネ!」にはリハーサルは一切ありません。段取りだけの説明で、あとはすぐに本番。以前はみんなで会議室に集まって、バカなことを言っていましたけどね。オンエアでは言えないことをそこで吐き出すわけです。特にデーブ・スペクターなんかは絶対オンエアできないことを言っていましたよ。古市(憲寿)くんが入ってきた頃は、僕が「古市、ここからはテレビでしちゃダメな話だからな」と言うんですが、あいつはそれを本番でぶっ込んでくるんですよね。それを僕が「バカヤロウ」って突っ込んで。あいつはいいと思ってそういうことをやってくるから、何回も「何やってんだ、お前」と言った。それが彼の持ち味になってしまっているわけですが。彼はすごく独特な世界観を持っていて、道を切り拓いた感じがありますね。

 そうやって日々番組をやっていく中で、特に大事にしていたのは、誰が見ても分かりやすいような情報の伝え方。政治や経済の難しい問題や、デジタル技術に関するテーマだと、特にお年寄りには分からないじゃないですか。だから僕が気をつけていたのは、背伸びをしないで、なるべく平易な言葉で分かりやすくお伝えしよう、ということ。また、横文字がどんどん入ってきますが、それもなるべく使わないほうがいいだろう、と思っていました。スタッフのみんなにも言っていましたし、僕自身、そういう意識で22年間やってきたつもりです。だから三浦瑠麗さんが出てきた時には今までの視聴者はぶっ飛んだんじゃないかと思います。三浦さんは結構難しいことをサラッと言っちゃいますからね。

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