未だ消えない「東京駅」の高層化 63年前の十河構想が不死鳥の如く蘇る可能性も

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 東京駅は1914年に開業した。東京都内に所在する主要駅のうち、品川駅は1872年、上野駅は1883年、新宿駅は1885年にそれぞれ開業している。

 東京駅の開業は、これらより30〜40年ほど遅い。かなりの後輩にあたる東京駅だが、瀟洒な赤レンガ駅舎は東京を代表する風景として語られ、“東京の顔”にもなっている。

 帝都の玄関口として計画された東京駅は、その計画段階から念入りにデザインなどが検討された。

 明治新政府の首脳たちは、東京駅の駅舎デザインにこだわりを見せるあまり、その竣工は遅れた。結果、東京駅は明治の間の開業は間に合わなかった。

 そうした紆余曲折を経て、東京駅は華々しく開業。その後も、たびたび話題をさらってきた。

 特に、世間の耳目を集めたトピックが東京海上ビルディングの建て替え問題だった。東京海上ビルディングは奇しくも東京駅が開業した1914年に起工。関東大震災や戦災を経験した。

 戦後復興で経済成長へひた走る1960年代、築50年超の東京海上ビルは老朽化が目立ち、建て替え議論が浮上した。新たなビル建設で設計を任されたのが日本を代表する建築家の前川國男だった。

 前川は戦前にフランスへ渡って世界の巨匠と名高いル・コルビュジエに師事し、帰国後は日本の建築家に多大な影響を与えたアメリカ人建築家のアントニン・レーモンドに学んでいる。

 そんな前川が設計した建物は国内外に多くつくられたが、ひときわ前川建築として有名になったのが丸の内の東京海上ビルだった。

 それまで、国内の建物には100尺規制と呼ばれる高さ制限が設けられていた。100尺規制は大正期に制定されたこともあり尺貫法による基準となったが、その後に100尺に近似した31メートルへの制限に改められた。

 特例的に31メートルよりも高い建物も存在したが、長らく日本の建築物は31メートルが基準とされ、それ以上の高さのビルは制限された。

 しかし、高度経済成長期にはオフィスのフロア面積が不足する事態が予測された。オフィスフロアが足りなくなれば、経済発展を妨げることにもつながる。それが経済界の悩みの種でもあった。

 他方で建築技術の向上や強度のある資材が開発されたこともあり、建築業界からは建物を高層化することに意欲的な機運も芽生えていた。そして、行政は社会の要請に応える形で規制を緩和する。

 当時の日本は戦後復興から奇跡の経済成長を遂げ、1964年には東京五輪を控えていた。そうした事情も手伝って、1961年には特定街区制度が、1963年には容積地区制度が創設されることになり、高さ規制は段階的に緩和された。

 前川は東京海上ビルを約127メートルの高さで設計。法律的に問題はなかったが、皇居に面した場所だったことから、「ビルの上から、皇居を覗けるのではないか?」との指摘が寄せられる。これが世間を騒がせることになる。

 この指摘により、前川がデザインした東京海上ビルの着工は一時的にストップすることになった。ビルの建築許可は東京都が判断するが、問題は広がり国会でも審議されるまでに発展した。とはいえ、東京海上ビルに法律的な瑕疵はない。そのため、議論の焦点は「法律的に問題がなくても、美観上の問題がある」へとすり替わり、美観という個人的なセンスは議論しても結論を出せないため、東京海上ビルはいつまでも着工されないままだった。

 膠着状態に痺れを切らした東京海上は、建設計画を改める。そして、高さ99.7メートルのビルを建設した。こうして東京駅前に降って湧いた騒動は終息した。

 新しい東京海上ビルが高さを99.7メートルに抑えても、建築技術の進歩が止まるわけではない。高層化の需要が減退するわけでもない。

 ビルの高層化は拍車がかかり、東京のみならず都市部では高いビルが次々と改革された。

 実際、東京海上ビルの問題が国会で紛糾している間にも東京都内では次々と背の高いビルが建設された。そして、一件落着した東京海上ビルの一画、丸の内一帯にも高層化の波は押し寄せる。その波は、東京駅をも飲み込もうとした。

 1977年、国鉄の高木文雄総裁と東京都の美濃部亮吉知事が東京駅の高層化についての話し合いをもった。両者の話し合いをきっかけに、国鉄は東京駅八重洲北口開発推進チームを発足する。

 同チームは1981年に“21世紀の東京駅構想”を発表。同構想は、赤レンガの駅舎を取り壊し、その替わりに丸の内側に35階建ての高層駅舎が建てる青写真を描いていた。そして、35階建ての駅舎は巨大なデッキで八重洲口側に立地する百貨店・大丸と結ぶ計画にしていた。

中曽根内閣が高層化を推進したワケ

 “21世紀の東京駅構想”は非現実的な計画として忘れられていくように思われた。しかし、1986年に第3次中曽根康弘内閣が発足すると、事態は高層化推進へと向かっていく。

 中曽根内閣は、民間事業者の能力の活用による特定施設の整備の促進に関する臨時措置法(民活法)を制定。これにより、再び東京駅を高層化する計画が浮上する。

 中曽根内閣が東京駅の高層化を推進した理由は、きたる国鉄分割民営化を見据えてのことだった。中曽根内閣は、東京駅の赤レンガ駅舎を解体し、新たに25階建ての高層駅舎へと建て替える計画にしていた。それと同時に、駅周辺の16ヘクタール区画を再開発することも検討されていた。

 中曽根内閣が策定した東京駅の建て替え計画は、猛烈な反対によって頓挫した。その後、国鉄分割民営化でJRが発足したものの、東京駅の高層化は盛り上がりを欠いた。むしろ、21世紀に入ってからは赤レンガ駅舎を開業当時の姿へと戻す復原工事を実施している。

 従来、建物などを元に戻す作業は“復元”と表現される。しかし、東京駅では“復原”という言葉が充てられた。復元も復原も、大まかな意味では同じだが、復原は前の状態にそのまま戻すのではなく、時代に合わせて進化させながら戻すといったような意味合いを含ませている。

 実際、東京駅の復原は時代に合わせて耐震性や耐火性などが強化され、バリアフリー化も進められた。

 東京駅は戦災でドーム型屋根を焼失した。戦後復旧の際には、資材が不足していたこともあり八角形の屋根で仮復旧させた。いずれドーム型屋根に戻す予定だったが、長らく仮復旧の八角形屋根のままにされた。そして、2012年の復原工事でドーム型屋根へと戻されている。

 この復原工事の資金500億円は、JR東日本が使いきれなかった東京駅の容積率を空中権として近隣に売却して調達した。

 空中権を販売するといった一連の過程から、ただちに東京駅丸の内駅舎を高層化することは難しい。そのため、赤レンガ駅舎の解体問題はいったん沙汰止みとなっている。

 とはいえ、今後も東京駅の赤レンガ駅舎は安泰か? と問われれば、決してそうとは言い切れない。

 なぜなら、東京海上ビルの高層化が社会問題化する前、つまり100尺規制という強い規制があった段階の1958年に、国鉄の十河信二総裁が東京駅の高層化を含めた周辺開発計画を発表していたからだ。

 同計画は十河構想と呼ばれ、東京駅を高層化するとともに皇居から行幸通り、東京駅中央口、そして八重洲口へと通り抜ける自動車用のデッキをつくる構想だった。

 十河総裁は東海道新幹線の開業というビッグプロジェクトに取り組み、新幹線の父とも呼ばれた。国家的プロジェクトでもある東海道新幹線と東京駅高層化を同時並行で進めることは予算的にも厳しいことから、十河構想は立ち消えている。その計画が甦る可能性は捨て切れない。

 歴史を振り返ると、東京駅の高層化は計画が霧散しても不死鳥のごとく復活している。取り巻く環境が変わることで、建築技術が進化することで、東京駅の高層化が検討される可能性は十分にある。

 また、震災や火災といった災害で駅舎を失い、再建時に高層駅舎が計画されることだって考えられる。

 赤レンガ駅舎が東京駅から消えてしまうことは想像できないが、赤レンガ駅舎のある風景は決して当たり前のことではない。多くの人たちの尽力によって、美しい赤レンガ駅舎が保たれていることを忘れてはいけない。

小川裕夫/フリーランスライター

デイリー新潮取材班編集

2021年5月8日掲載

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