最年少は16歳4日、最年長は45歳4ヵ月…信じ難い“プロ野球投手デビュー記録”を振り返る!

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一見ぬぼーっと

 NPB史上最年少デビューをはたした投手は誰か? こんなクイズを出したら、おそらく「金田正一」と答えるファンもいるかもしれない。

 1950年夏、享栄商(現享栄高)のエースだった金田は、愛知県大会準決勝で敗れ、甲子園出場の夢が断たれると、高校を2年途中で中退し、国鉄スワローズに入団。同年8月23日の広島戦でプロ初登板を飾った。このとき17歳と22日。だが、これは戦後でも最年少記録にはならない。

 14年後、金田より8ヵ月以上も早い16歳3ヵ月と25日でプロ初登板をはたした男がいる。阪神・古沢憲司である。入団のきっかけは、65年7月1日付の大阪日刊スポーツによれば、佐川直行スカウトが、愛媛県出身の知人から「オレの故郷に滅法速い球を投げる少年がいる」という話を聞かされたのが始まりだった。この少年こそ、当時、新居浜東高1年在学中の古沢だった。

 すぐさま現地に向かい、旅館に呼んでキャッチボールをさせると、コントロールに難があるが、確かに速い球を投げる。だが、年齢を聞くと、まだ15歳。「もう1年待ってみよう」とそのまま引き揚げてきた。

 ところが、春季キャンプを目前に控えた64年1月、古沢から手紙が届き、「家庭の事情で高校を中退したので、阪神に入団したい」と伝えてきた。佐川スカウトは再び愛媛に向かい、2月中旬、詰め襟姿の古沢を甲子園に連れてきた。

 そして、同年7月25日の国鉄戦、0対7と大きくリードされた7回から4番手のリリーフでプロ初登板。度の強いメガネをかけた16歳3ヵ月の少年は、一見ぬぼーっとしていたが、投球は大人顔負けの迫力だった。3四球を許したものの、3回を無安打2奪三振無失点「ブルペンよりマウンドに上がったときのほうが、コントロールがありました」と物怖じしないコメントを残している。

巨漢力士にちなんで“ブンちゃん”

 さらに翌65年6月30日の大洋戦で、4安打完封のプロ初勝利。全投球の8割が直球という力の投球で三塁を踏ませず、金田より1ヵ月遅れながら、17歳2ヵ月と30日での快挙を成し遂げた。

 古沢は74年に自己最多の15勝を挙げるなど、西武、広島時代も含めた実働19年で、通算87勝を記録した。

 古沢の16歳3ヵ月でのデビューは、戦後最年少記録になるが、上には上がいる。NPB史上最年少デビューの投手は、戦前に存在した。

 高等小学校高等科2年在籍時の15歳で名古屋軍(現中日)にテスト入団した西沢道夫である。年齢不足のため、養成選手第1号となり、史上初の背番号「0」を着けたが、正式登録後の37年9月5日の金鯱戦で7回から3番手として公式戦初登板。2回を無失点に抑えた。16歳と4日は、今も史上最年少記録だ。182センチの長身だったことから、2メートルを超える巨漢力士・出羽ヶ嶽文治郎にちなんで“ブンちゃん”の愛称で親しまれた。

 翌38年6月26日の阪急戦で1失点完投のプロ初勝利。16歳9ヵ月と25日だった。40年には20勝を挙げ、42年5月24日の大洋戦で、野口二郎とともに、世界最長の延長28回を投げ合った。同年7月18日の阪急戦では、ノーヒットノーランも達成している。

 復員後の47年まで通算9年間で60勝を挙げたが、兵役中に肩を痛めてから、満足な投球ができなくなり、打者に転向した。52年に首位打者と打点王を獲得し、通算212本塁打を記録した“初代ミスタードラゴンズ”は、投手でシーズン20勝、打者でシーズン40本塁打以上の両方を記録した唯一の男としても知られる。

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