孫文の「肝臓」ミステリー 一時、旧日本軍が保管していたという数奇な運命を辿る
司法取引に使われた国宝
さて、日本軍から取り戻した孫文の肝臓一式は、南京で盛大なイベントを催して迎い入れられ、そのうちホルマリン漬けの肝臓は、1942年4月1日に中山陵の棺の前面に安置されたという。だが、安置されたはずの肝臓とほかの切片などの実際の所在は、意外な人物の告白から発覚する。日本軍から孫文の肝臓を取り戻した張本人、褚民誼である。
汪兆銘の腹心であり縁者でもあった褚民誼は、汪政権の行政院副院長や外交部部長、駐日大使を歴任し、昭和天皇からは勲一等旭日大綬章を授与された人物である。戦後は重慶国民政府によって売国奴狩りに遭い、高等法院で死刑判決を受けた。
死刑判決が宣告された後、獄中の褚民誼は、実は自分が国にとって不可欠な国宝を長年保管していると供述し始めた。そして、贖罪としてその宝物を献上するので、減刑か再審を求めたという。その案件を蒋介石は、特務機関である軍事委員会調査統計局に預けた。尋問した幹部は、褚民誼から渡された住所を訪ね、国宝を確認した。その国宝が孫文の肝臓だった。つまり、2度目の窃盗犯は褚民誼だったのである。その後、肝臓切片とパラフィン包理標本、臨床記録なども、汪兆銘の同意を得て、上海の湯(とう)という医師に預けられた。湯医師はベルギー留学時代に癌について専門的に学んでおり、医学の研究に役立てることを考えたからだという。
今度は蒋介石の手に渡った孫文の肝臓は、前出の王菡が研究の過程で、かつての孫文の随身・范良や陵園管理处の長老らに聞き取りをしたところ、みな「肝臓は最後に焼却した」と語ったと「揚子晩報」の取材に答えている。また、切片などは1946年6月20日、蒋の命令で総理陵園管理委員会が保管することになった。
一方、国宝を差し出した褚民誼の処遇はというと、蒋介石は減刑命令を出すが、世論の紛糾や党長老の反対などを受けてとん挫。首都最高法院は再審請求を却下し、原審を支持。褚民誼は1946年8月23日、銃殺刑に処された。
それ以降の肝臓などの行方を記した文献は見つかっていないという。
いずれにせよ、肝臓の行方について、孫文の意志を受け継ぎ蒋介石とも激しく対立した妻の宋慶齢のコメントは見つかっていない。まさか、こんな数奇な運命に辿ることになるとは夢にも思っていなかったはずである。
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