「新横綱になった瞬間から引退を考えていた」 貴乃花が語る横綱のプレッシャーと「土俵脇で雑魚寝」の入門時代(小林信也)

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 花田光司は父・貴ノ花が現役だった日々をはっきり覚えている。小学校1、2年生の頃の記憶だ。

「子どもながらに、父親の格好よさを感じていました。東京場所だと毎日、悔しがったり安堵したりして帰って来ます。その強弱を見ながら、仏様に手を合わせる感じで相撲中継を見ていました。おこがましいけれど、父と一緒に戦っていました。だから、気持ちの削られ方が半端じゃありませんでした。勝ち負け以上に、無事に帰って来てほしいと祈るような気持ち……」

 横綱引退の日にインタビューして以来、18年ぶりに会った貴乃花は穏やかな表情で、しかし情熱的に語ってくれた。

「父も母も『相撲をやれ』とは言いませんでした。師匠は『メシが食える道に行ってくれ』とそれだけです。師匠が引退する時、NHKで放送された『さよなら大関貴ノ花』という番組を見終わった時、私の中に何かが芽生えた気がします」

 父の引退は1981(昭和56)年1月、光司が8歳の時だ。光司はわんぱく相撲を経験し、中学で相撲部に入った。

「中学の恩師(武井美男監督)からずっと『光司は大学まで行ってアマチュアで相撲を取れ』と言われていました。プロには絶対行かせないと。なのに中学を卒業する前、なぜか父の引退番組の興奮が覚醒的に出てきたのです」

 燃える思いに目覚め、光司は父母を説得した。

「何でそういう気持ちになったのか、未だにわかりません。育ったのが相撲部屋ですから、厳格な世界だと重々わかっていました」

 だが、新弟子として暮らし始めた相撲部屋の住み心地は全然違った。

「とにかく恐怖でした」

「入った瞬間に、恩師に大反対された意味がわかりました。師匠の方針で、稽古の質と量が角界でも一、二を争うレベル。厳しさは想像を絶していました」

 部屋には40人以上の力士がいた。2階の大部屋に入りきらず、序二段以下の力士は1階の土俵脇(土間)で雑魚寝していた。

「その環境に育てられたと思います。土俵の真横で寝てましたから、土の文化が理屈抜きに落とし込まれた。15歳、頭のやわらかい頃に叩き込まれたのがよかったと思います。これだけ厳しい経験をしないとこういう伝統は受け継げないんだろうと感じました」

 最近は学生相撲出身力士が増え、幕内上位を占めている。が、横綱に昇進したのは輪島しかいない。その理由の一端はここにあると感じている。

 貴花田の四股名をもらった光司は、17歳2カ月で新十両。半年後には入幕を果たした。傍から見れば異例のスピード出世だが、本人には長い時間だったという。

「もうやれない、やれない、そんな思いの連続でした。その自信のなさと臆病さのために必死に稽古を重ねて、やっとこさ十両に上がれた感じです。1日を3日分くらいの濃厚な鍛錬で過ごしたので、生きた心地がしませんでした」

 ちゃんこも稽古のうち。懸命に食べたが、稽古が激しすぎて太れなかった。

「土俵に立つ民として甘えは許されない。そりゃもう、入ってから身体と精神が追い付いていくのがやっとでした。とにかく恐怖でした。地位が上がるたびに相手が強くなる、ダメージが大きくなる。勝つためには、こちらもダメージを与えることを覚えていく。私は突き放す取り口じゃなくて、くっついて相手の力を抑え込んで勝負を決めるタイプ。無類の力で突き飛ばしてくる相手の力を吸収するには、それ以上の力を発揮しないといけませんでした」

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