苦労している顔は見せない人でした……菅原洋一が語る盟友「なかにし礼さん」の思い出

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「知りたくないの」(1965年)「今日でお別れ」(1967年)などをヒットさせた87歳の歌手・菅原洋一が作詞家の故・なかにし礼さん(享年82)と過ごした日々を振り返った。2人は55年来の盟友だった。

「礼ちゃんは最も大切な友人の1人でした。彼との出会いがなかったら、今の自分はいません」(菅原)

 菅原のデビューは1958年。それから7年後、「知りたくないの」が100万枚近いヒットになったことで世に出た。訳詞者は昨年12月に他界したなかにしさん。原曲は米国カントリーだった。なかにしさんにとっても出世作だった。

 菅原が当時を振り返る。

「出だしのフレーズは『あなたの過去など知りたくないの』なのですが、『過去』という言葉は曲に乗りにくい。それまで日本の歌には『過去』という言葉が存在しなかったものですから」

 意外だが、その当時まで歌詞に書かれていたのは「昨日」までだったのだ。なかにしさんは過去の歌謡曲の中に「過去」という言葉がないことに気づき、この作品であえて使った。ただし、歌手としては歌いにくい言葉だった。

「だからレコーディングの際、わざと難しいことを訴えるような歌い方をしたんですよ」(同)

 菅原なりの歌詞へのささやかな抵抗である。すると、レコーディングに立ち会っていたなかにしさんが椅子から立ち上がり、「あんた歌手なんだからしっかり歌えよ!」と声を上げた。

 菅原はなかにしさんより5歳年上。しかも、なかにしさんは立教大仏文科を出たばかり。若き日のなかにしさんの強気な性格がうかがえる。

「自分の表現に自信があったのでしょうね」(同)

 斬新な訳詞と菅原の高い歌唱力により、曲は売れに売れた。若い2人は祝杯を挙げたのではないか。

「いや、それはありませんでしたねぇ」(同)

 2人は肌合いが違ったのだ。

 菅原は兵庫県内で屈指の進学校・加古川東高から国立音大声楽科に進み、大学院を修了した。声楽のエリートだった。

 一方、なかにしさんは旧満州で生まれ、命からがら引き揚げ、都立九段高から一浪して立教大に進んだ。転科などを繰り返したため、卒業までには7年を要した。その間、学費はシャンソンの訳詞で稼いでいた。

「苦労人でした。子供の頃から生死を賭けた運命の出会いがいっぱいあったわけでしょう。人生の過ごし方がやっぱり違う。僕なんか生ぬるい」(同)

 2人による次の作品「今日でお別れ」(1967年)もやはり売れた。ロングセラーとなり、1970年の第12回日本レコード大賞の大賞を受賞する。今度も祝杯はなかったが、当時のなかにしさんの苦労は目にした。

「ヒットして印税が入って来るのに借金が増えるばかり。お兄さんの借金の肩代わりをしていましたから」(同)

 1970年には由紀さおり(72)の「手紙」やいしだあゆみ(73)「あなたならどうする」などヒットさせ、1500万枚も売り上げたが、実兄からそれを上回る負債を押しつけられたのだ。

 ゴルフ場事業の失敗などによるものだった。その負債のうち約2億8000万円は肩代わりできたが、約3億円の借金が残った。

「けれど苦労している顔は見せない人でした」(同)

 なかにしさんのプライドだった。

義理堅さを感じた、なかにしからの手紙

 酒席は共にしなかった2人だが、一緒に旅行に出掛けたことはある。なかにしさんが作詞も作曲も手掛けた「風の盆」(1991年)をレコーディングする前のことだ。詞で描かれている富山県富山市八尾地区を2人で訪れた。富山を代表する年中行事・おわら風の盆が行われる地区である。

 この作品の詞と曲を手渡された時、菅原は内心で「唱歌みたいな歌だな」と思った。すると、なかにしさんがそれを見透かしたかのように「洋ちゃん、ちょっと一緒に八尾に行かない?」と誘ってきた。

 菅原は八尾に足を運んだところ、自分の歌い方に変化が生じたことを実感する。イメージが湧き、唱歌とは思わなくなった。高い歌唱力が最大限に生かされた。

「そういうところも礼ちゃんの優れた面でした」(同)

 菅原がなかにしさんの情けの厚さと義理堅さを感じたのは2010年のこと。喜寿の記念レコーディングを考えた菅原は、作曲は菅原の長男に任せようと考えた。そして作詞は長い付き合いのなかにしさんに頼みたいと思った。

 だが、その時点でなかにしさんは作詞をやめていた。菅原がそれでも電話してみたところ、「洋ちゃん、分かった。つくるよ」と二つ返事だった。

 その後、「ビューティフルメモリー」という詞を託される。

♪今となっては遅すぎるけど たまらないほど君に逢いたい――

 初恋と青春が記された詞だった。後日、なかにしさんから菅原に手紙が届いた。

「記念碑的な作品に参加させていただけたこと、天の配慮と感じ深く感謝いたします(中略)人生長いようでもあり、あっと言うまでもありますね。昭和39年の秋が、昨日のことのように思い出されます」(なかにしさんの手紙より)

 菅原は「礼ちゃんの温かい心があらためて分かった」という。なかにしさんと菅原が出会ったのは手紙にある通り1964年秋。その日をなかにしさんはおぼえていた。それから2人は一緒に12枚のシングルを出した。

「礼ちゃんは素晴らしい詞を書いただけでなく、小説も書けた。あんな人、もう出てきません。大変な経験をされていますが、苦労をするということはやっぱり良いことなんですよ」(菅原)

 菅原はデビュー63年。この間、なかにし作品以外にも「忘れな草をあなたに」(1971年)「アマン」(1982年)などをヒットさせた。ほかの著名作詞家たちとも交流があった。「白夜抄~北のおもいで~」(1992年)などを作詞したのは2007年に他界した故・阿久悠さん(享年70)である。

「阿久さんは怖かったですね(笑)。だから、どういうふうに歌えば阿久さんに気に入られるのか、そういう思いが強かった」(同)

 阿久さんは誰もが認める人格者だが、仕事では妥協を許さなかった。自分のイメージ通りの歌になることを望んでいた。

「阿久さんの場合、アドバイスというのがあまりなかったんですよ。それって、余計につらいかもしれないんです。言ってもらえば歌い方を変えたかもしれないけど、それがないので『これでいいのかな』という思いで歌っていました」(同)

 菅原は今もなかにしさん、阿久さんが遺した名曲の数々を歌い続けている。5月12日には東京・有楽町朝日ホールで「菅原洋一コンサート2001 和みII」に臨む。

 コンサートは自分と客席の対話だと考えている。

「両方でね、確かめ合って。こうなんですよと歌うと、そうだよね、そういうこともあるよねと。そういう思いで受け止めてもらえると」

 やはりリモートライブとコンサートは別物なのだ。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

2021年5月1日掲載

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