中国駐大阪総領事館のトップが約半年不在 華僑社会でささやかれる“身柄拘束”説
権力闘争の余波?
その王毅氏が20年11月24~25日に来日し、25日には茂木敏充外相との日中外相会談に臨んだことは記憶に新しい。
会談後の共同記者発表の場では、沖縄県の尖閣諸島をめぐり、王氏は「一部の正体不明の日本漁船が頻繁に釣魚島(尖閣諸島の中国名)周辺の敏感な海域に入っている」、「引き続き自国の主権を守ってゆく」などと主張。茂木外相がその場で反論しなかったことに与党内からも「なぜすぐに反論しなかったのか」と批判の声が噴出した。
周辺関係者によれば、何氏は「王毅氏の来日直前までは普通に総領事としての公務をこなしていた」という。
16年ごろ中国で身柄拘束され、約4か月後に釈放された在日華僑・華人団体の幹部が後に行った証言によると、中国国家安全部(国家安全省)は同年の秋以降、王毅氏の駐日大使時代の言動や側近外交官らの言動を徹底的にチェックしていたという。
何氏が帰国したタイミングが王毅氏の来日時期に重なっていたこともあり、在日華僑・華人らの中には「何総領事は権力闘争に巻き込まれるなどして、身柄を拘束され、取り調べを受けているのではないか」との憶測も浮上している。
不審死の“前例”
中国駐大阪総領事館のトップが公務の場から突然姿を消したケースとしては、2008年7月、当時の羅田広[ら・でんこう]総領事が「仕事の都合で一時帰国中」に、「河北省で交通事故に遭い死亡した」とされる事例が挙げられる。
総領事以上の役職の中国の駐日本外交官が任期中に死亡した初めての事例だったにもかかわらず、死去の発表までに日数を要したことや、事故の具体的状況などが「明らかではない」などとされたため、在日華僑らの間では「不審死」だと噂された。
当時、筆者は記者として所属していた産経新聞社で、僚紙『夕刊フジ』関西総局の司法、行政等の担当だった。
羅氏死去の事実を中国外交部新聞司(報道局)の発表よりも前にキャッチしたにもかかわらず、思わぬ方面からの圧力を受けた編集幹部によって、スクープ原稿が没にされるという経験もした。
この羅氏は1952年12月生まれで、当時55歳。やはり対日部門のキャリアが長く、長崎総領事館の領事、札幌総領事、大使館付参事官などを歴任。1999~2006年は本国で外交部領事司副司長、同司長を務め、06年2月以降、駐大阪総領事の任に着いた。
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