「戦死者への冒涜を許すな」遺骨収集ボランティアがハンストで訴えた「辺野古基地」埋め立て用土砂問題――安田菜津紀の現地リポート

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今なおガマに残る遺骨の数々

 「一度ここで、ライトを消してみましょうか」。ヘッドライトの小さな灯りのスイッチを消すと、辺りは一瞬にして漆黒の闇に包まれた。時折、水の滴るような音が微かに聞こえるのは、前日の夜に降ったスコールのような雨のせいだろうか。

 4月3日、私はかつて激戦地となった沖縄本島南部、糸満市の壕のひとつを、長年沖縄戦で犠牲となった人々の遺骨収集活動を続けてきた、具志堅隆松(たかまつ)さんと訪れていた。鬱蒼と茂る森へと続く道なき道の先に、岩陰に隠れるように開いた地下への入り口がある。人が一人通れるほどの「通路」を恐る恐る降りていくと、長さ数十メートルはあるだろうか、その先に幅3メートルほどの洞窟のような空間が広がっていた。やや幅が広い場所は、旧日本軍が手術室として使っていた可能性があるという。

 天井が剥がれ落ちたせいか足場は悪く、土や石の塊を慎重に避けなければ前には進めない。その片隅に落ちている真っ黒い塊は、古びた靴底だった。岩の上が所々黒ずんでいるのは、蝙蝠の糞が積もった跡だという。すっかり色彩を失ったこの空間で、兵士たちが使っていたらしい白い陶器のかけらが妙に目につく。

 「ここから壁が焼けているのが分かりますか?」

 具志堅さんが指さした先の壁は、一際炭のような色に染まっていた。「ここは入り口から火炎放射を受けたようなんです。この周辺の遺骨も炭化しているんですよ」。そう言いながら具志堅さんがそっと足元の土の中から、小さな塊を拾い上げた。「これは指の骨ですね」と言われても、殆ど真っ黒のその塊が、私には周囲の石と見分けがつかなかった。持ってみると確かに、同じ大きさの小石よりも幾分か軽いのが分かる。しゃがんで目を凝らし、地表の泥を払ってみると、足元から次々と、遺骨らしきもの、薬莢が破裂した後の残骸、軍服のボタン、小銭と、人が確かにそこにいた痕跡が次々と見つかる。76年経ってもなお、この暗闇から抜け出せずにいる遺骨がこんなにも残されているのかと、しばし言葉を失ったまま、足元の光景に見入ってしまった。

 私がこの骨の主を、直接知る由はない。果たしていきなりやってきた自分がシャッターを切っていいものなのか、躊躇する。そんな私に具志堅さんは静かに語ってくれた。「あなたが撮った写真の掲載されたものが、偶然、遺族の元に届くことだってあり得る。写真を通してこの人が家に帰れるようにと、念じながら撮って下さい」。

 遺骨の状態は、そこで何が起きたのか、その人はどのように亡くなったのかということを物語ることがある。具志堅さんは、下半身だけがかたまって見つかり、なぜか金歯やあごの骨が壁の上に引っかかっている遺骨を目にしたことがあるという。それは骨の主が手榴弾を爆発させた、あまりに凄惨な現場だった。それも、ひとつ目が不発でもなお諦めず、ふたつ目の安全ピンを抜いた痕跡があったのだという。他にも、小銃の筒先をのど元にあて、片足の靴を脱いで足で引き金をひいたらしい遺骨も目の当たりにしたことがある。

 軍規を徹底させるための『戦陣訓』の一節には、「生きて​虜囚の辱を受けず」と記されていた。捕虜になるぐらいなら死ね、という教えが、こうして多くの命を奪うことになった。「それが間違った教えだったと国がしっかり認めなければ、その人たちは“自殺”したことになってしまう。実際は“した”のではない、“させられた”んですよ」と語る具志堅さんの言葉には、静かな怒りが感じられた。

 壕から這うようにして地上に戻ると、入り口近くの岩陰から、具志堅さんが小さな白い塊をそっと拾い上げた。3、4歳前後と思われる、子どもの歯だった。兵士たちと思われる遺骨が壕内で見つかり、民間人の遺骨が外で見つかったことが、何か沖縄戦の過酷さを表しているように感じられた。もちろん、この壕自体に何が起きたのかは分からない。ただ、壕やガマ(自然洞窟)で住人たちが、時に危険な入り口近くに追いやられ、時に外へと追い出された歴史を思わずにはいられなかった。

「遺骨が入り込むということは100%ない」は本当か

 激しい地上戦が続いた沖縄では、推定で約9万4000人の住民を含む20万人以上が犠牲になったとされている。とりわけ激戦が展開された本島南部の土砂が今、辺野古の新基地建設のための埋め立てに使われる可能性があるのだ。「戦没者の血が染み込んだ土砂を、新たな基地を作ることに使うこと自体、戦死者への冒涜だと思うんです」と、具志堅さんは憤る。

 辺野古の海で軟弱地盤が見つかったことを受け、2020年4月、防衛省は設計変更の申請書を沖縄県に提出し、県内で調達できる土砂のうち、約7割が本島南部の糸満市と八重瀬町内で調達が可能だとした。南部で今、新たな採掘場が作られはじめているのは、埋め立ての需要を見越して開発を加速させているためだと具志堅さんは見ている。

 4月8日、私たちが訪れた糸満市の壕近くで鉱山開発を進めようとしている業者が、沖縄県議会土木環境委員に参考人招致され、「遺骨が入り込むということは100%ない」と答えている。採掘して売るのは、表土の下の琉球石灰岩であり、そこには遺骨はない、というのが業者側の言い分だ。

 ただ、具志堅さんはその言い分にも疑問を抱いているという。「琉球石灰岩は雨水に侵食されて、地下に空洞ができることがあるんです。その“ガマ”にも多くの人たちが戦時中、逃げ込んで亡くなったり、入り口が陥没して脱出できなくなったりしています。こうして様々なケースがあるので、地下から遺骨が出ることはあり得るんです。地下10メートルから遺骨が見つかったこともあります。遺骨が岩の隙間に落ちてしまっていることもありました」。

 さらに問題視しているのは、「個体性」が失われてしまうことだ。具志堅さんたちの収集作業では、一人ひとりの遺骨を丁寧に掘り出し、そこから名前入りの万年筆が見つかったことで遺族の元に戻れたケースもあった。「表土をはぎ取って持っていった時点で、複数の遺骨が混ざって分からなくなってしまうんです」。

 2016年にできた、遺骨収集を“国の責務”とする「戦没者遺骨収集推進法」が、まるで存在しないかのように事が進んでしまっている。先行開発の需要を国が生み出しているのであれば、国の方針に対して物を言うべきではないか……具志堅さんはそう考え、沖縄の防衛局に遺骨が見つかった現場の視察要請を昨年出している。ところが防衛局からは、「内部で共有します」という通り一遍の答えが返ってくるに止まった。戦没者の遺骨があったことを認識したうえで計画を立てたのかを問うても、回答はない。

具志堅さんのハンストから若者へ広がった「輪」

 「まずこの問題を知ってほしい」と、具志堅さんは今年3月、県庁前でのハンガーストライキに踏み切った。このハンスト中、具志堅さんの下を訪ねてきた遺族の中には、父親が泳げなかったために海に入って逃げることができず、家族と別れ行方が分からなくなったことを話してくれた人もいた。「ここには父の遺骨が眠っているかもしれない。泳げなかった父親を、辺野古の海に沈めるのはやめてほしい」と泣きながら具志堅さんに語っていたという。いまだにトラウマを抱え、南部に足を踏み入れることもできないという声さえある中で、一番の当事者であるはずの遺族の声が反映されないまま、事が推し進められようとしていること自体、具志堅さんにとっても受け入れ難いことだった。

 「当事者は、沖縄の人たちだけではないはずなんです。行方不明者の中には、アメリカ兵、本土からの兵士、朝鮮半島の人々もいる。遺族は全国にいらっしゃり、自分の親族の遺骨が使われるかもしれないという現実があるんです」。

 具志堅さんは、沖縄南部の戦没者の遺骨収集を、自分たちの世代だけでは終わるものではないと実感しているという。「だからこそこうした場所は戦死者への慰霊と、次世代の平和学習の場にしていくべきではないかと思っています。戦争で殺されたのは事実なんだと子どもたちに知ってもらい、そこで考えてもらいたいんです。なぜ私たちが戦争を止めきれなかったのか、なぜアジアの人たちが犠牲になることに私たちは気が付かなかったのか。そういったことを考えるための現場が、沖縄にはこうして残っているんですよ」。

 こうした具志堅さんのアクションに、有志で集まった次世代が「具志堅隆松さんのハンガーストライキに応答する若者 緊急ステートメント」を発した。その一節にはこうある。「これは決して沖縄という一地方の政治問題ではなく、日本全体の戦後処理・戦争体験継承・人権意識・民主主義に関わる問題なのです」。呼びかけ人の一人である石川県在住の坂本菜の花さんは、15歳から3年間、沖縄県で暮らしていた。その間に、遺骨収集を手伝ったことがあり、精神力も体力もいる地道な作業の一端に触れた。穏やかで控えめな印象だった具志堅さんが、ハンガーストライキまでしなければならない事態なのかと衝撃を受けたという。「ハンガーストライキはガマで生き埋めになった人々の気持ちに近づくためのものでもある」と語る具志堅さんの様子に、呼吸が浅くなるほど胸が締めつけられた。「何ができるか分からないけれど、具志堅さんの行動を受け止めています、というアクションを起こしたかった。どうしていいのか分からないけれど、考えるための場を作るのがこの声明の意味のひとつ」と語る。大切なのは「そもそも」から分かち合い、間口を広げていくこと、と菜の花さんはいう。「そもそも辺野古って何?」といったことから知る場を作ることは、この問題に興味、関心をこれまで向けていなかった人々を置き去りにしない上で大切なことかもしれない。

 故・翁長雄志知事に対し、当時官房長官だった菅義偉首相は「戦後生まれなので沖縄の歴史はなかなか分からない」と発言したことがあった。「採石業者においてご遺骨に配慮した上で、土砂の採取が行える」と繰り返す首相含め、国を動かすのは、市民の声だ。現在、有志による「遺骨で基地を作るな!緊急アクション!」の呼びかけが行われるなど、世代を超えたアクションの輪が、今着実に広がろうとしている。

安田菜津紀
1987年神奈川県生まれ。NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)所属フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事  世界の子どもたちと向き合って』(日本写真企画)、『故郷の味は海をこえて 「難民」として日本に生きる』(ポプラ社)、『君とまた、あの場所へ シリア難民の明日』(新潮社)他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

Foresight 2021年4月22日掲載

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