楽天復帰「田中将大」は日本で28連勝中… 9年前、最後に土を付けた西武投手のその後
今年のプロ野球で注目の選手といえば、メジャーから古巣・東北楽天ゴールデンイーグルスに復帰した田中将大投手だろう。
田中はチームが初の日本一に輝いた2013年の日本シリーズの第6戦で敗戦投手となっているものの、シーズン公式戦では24勝0敗1セーブという大記録をマークした。シーズンオフに渡米した日本プロ野球界での連勝記録は続いているのである。
さて、そこで気になるのが、田中が最後に日本で負けたシーズン公式戦だ。それは2012年8月19日、西武ドーム(現・メットライフドーム)で行われた埼玉西武ライオンズとの一戦だった。前年までのプロ生活5年間で、田中はすでに65勝を挙げていた。12年はこの試合前時点で6勝3敗、防御率は2・19という成績だった。
この田中と投げ合うことになったのが、06年の大学・社会人ドラフト3位でTDK千曲川から入団した山本淳という投手だ。当時30歳で、正直、ライオンズファン以外には無名に等しい存在だった。身長188センチの長身右腕だったが、07年・08年・11年の3シーズンで1軍登板はなく、09年に12登板、10年に9登板を果たしたのみ。通算で0勝1敗、防御率8・20という成績であった。
12年こそ1軍昇格を果たしたが、やはりこの試合の前までの成績は0勝0敗で防御率も4.70と冴えない数字。プロ通算23試合に登板して未勝利で、この楽天戦が、彼にとってプロ6年目での1軍初先発となった。この無名の男が球界を代表する大投手と真っ向から渡り合うことになろうとは、両球団関係者も両軍ファンも誰一人想像していなかったに違いない。
いざ試合が始まると、山本は初回から2四球を与え、2死一、二塁のピンチに陥った。だが、最後は5番・DHのハーパーを内野ゴロに打ち取って立ち上がりを無失点で乗り切ることに。
しかし続く2回表に試合が動く。先頭の6番・牧田明久にライナーでレフトスタンドに叩き込まれる一発を食らってしまったのだ。さらに1死一、二塁のピンチを招いたが、1番の松井稼頭央をセカンドゴロの併殺に打ち取り、なんとか切り抜けた。3回表にも味方野手陣のエラーとヒットで無死一、三塁という大ピンチを迎えたが、後続を断ち追加点を許さなかった。
そして4回表の楽天の攻撃をようやく3者凡退で仕留めると、この山本の力投に味方打線が応えた。4回裏2死一、二塁のチャンスから6番の浅村栄斗(現・楽天)にタイムリー二塁打が飛び出し、同点に追いついたのだ。一塁走者だった中村剛也はホームでタッチアウトとなり、勝ち越しはならなかったものの、山本には待望の1点であった。力投を続ける山本は続く5回表も3人で抑えた。6回表からは十亀剣にマウンドを譲ることに。5回裏に西武が勝ち越していれば、勝利投手の権利を持ったままの降板となったが、惜しくも同点のままだったため、山本のプロ初勝利はおあずけとなってしまったのだった。
その直後の6回裏だった。続投する田中に対し、西武打線が襲いかかったのだ。先頭の2番・秋山翔吾(現・シンシナティ・レッズ)が右前打で出塁し無死1塁とすると、3番のヘルマンが右翼線突破の適時二塁打を放ち、勝ち越しに成功。そこから4番の中村が右翼線への適時打、5番・カーターが右越二塁打、6番・浅村が中前への2点適時打と続いた。なんと5連打で、田中をマウンドから引きずり下ろしたのである。最後は代わったハウザーから炭谷銀仁朗(現・読売)が中前への適時打を放った。打者一巡の猛攻でこの回一挙5点を奪い、試合の主導権を握った。
その後、西武投手陣は十亀から岡本篤志へとリレーし、楽天の反撃を1点に抑えた。結果、6-2での快勝となった。
この試合、山本は序盤のピンチで踏ん張り続け、最少失点1で切り抜けた。無名の右腕が試合を壊すことなく、あの田中と投げ合ったのである。プロ初勝利こそ逃したものの、チームとして田中に黒星をつけることができたのは、この男の好投なくしてはありえなかったといえよう。
一方の田中はこの試合で敗戦投手になって以降、この年のシーズンを4連勝で終えている。つまり13年の24連勝と合わせて現在“28連勝中”なのである。これはプロ野球最多の記録であり、今年その数字をどこまで伸ばすことが出来るのか、に注目が集まっているわけだ。
山本のその後は
田中に日本最後の黒星をつけた男・山本のその後はどうなったか。この試合から約1カ月後の9月16日の千葉ロッテマリーンズ戦で、プロ2度目の先発マウンドに登った。だが結果は2回を投げて失点4、自責点3で敗戦投手となってしまった。
結局、この年はわずか4試合の登板に留まり、0勝1敗、防御率6・52という結果に終わっている。翌13年も12試合に登板し、0勝1敗。防御率は2・25であったが、シーズンオフの10月29日に戦力外通告を受けることとなったのである。7年間のプロ生活で実働は4年。計37試合に登板して0勝3敗、防御率5・52というのが山本の通算成績であった。
だが、山本は野球を諦めなかった。西武を退団後、14年から社会人野球の日立製作所でプレーしたのである。34歳だった16年夏には都市対抗野球で活躍もしている。このときチームはベスト4まで進出していた。
準決勝で先発を任された山本は、東京ガスを相手に7回無失点の快投を披露する。チームは2-0で勝利し、初の決勝に進出した。翌日の決勝戦で、日立製作所はトヨタ自動車に0-4で敗れて準優勝に終わったものの、山本は、あの田中と投げ合った試合を思わせる力投でチームに貢献したのであった。その後、18年に退部している。
田中に日本最後の黒星をつけた男・山本淳。たとえプロ未勝利でも、その名を覚えておきたい投手である。