わきまえない人・森喜朗の晩節に政界が捧げる「忖度なきマイナス査定」
総理の椅子を手放し20年。サメだノミだと揶揄されつつも、自民党名門派閥・清和政策研究会のドンとして歴代内閣に影響力を保持した執念の「貸し借り談合政治」がついに終幕。
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「組織委の女性はわきまえている」――。女性差別発言を次々繰り出す森喜朗元首相(83)のポリシーは、失敗から学ばず、自らを省みないことに違いない。2月に東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長を辞した翌月も、自民党・河村建夫元官房長官(78)の政治資金パーティーで「女性というには、あまりにもお年」と発言し再炎上。ジェンダー平等どこ吹く風の雄弁は、失言、放言、不規則発言からの“復権”を幾度も繰り返してきた余裕のなせる業かもしれない。
ところが目下の永田町では、森元首相の影響力が急降下しているという。 「暗愚の宰相」とまで呼ばれ、支持率が一桁まで落ち込み総理の椅子を手放したのが2001年4月26日。ちょうど20年が経過した今春、ようやく森喜朗元首相への送辞を読む機会が訪れたのだ。
「加藤官房長官」で押し通した菅首相に激怒
自民党の中堅代議士が言う。
「今風に言えば、森さんはついにオワコンになった。もう資金パーティーには呼ばなくても角が立たないし、組織の役職をお願いする必要もなくなった。世間的には意外かもしれませんが、今まで20年間、森さんは最大派閥の清和研究会のOBとして、内閣を含め様々な人事に口を挟んできました。派閥の後輩である小泉政権や安倍政権の時はもちろん、昨年秋の菅総理の誕生の時だって、舞台裏で口を出していたんです。例えば、官房長官のポストを巡って、森さんは自分の子分である萩生田さん(光一、現・文科相)を強く推した。ところが、清和研の影響力が強くなりすぎることを警戒した菅総理は、意向をくまずに加藤勝信さんを官房長官に据えた。メンツをつぶされた森さんは激怒したといいます」
清和研のドンとこじれてしまった菅義偉総理は結果として二階俊博幹事長を頼らざるを得なくなり、党内の権力バランスに微妙な変化が生じたのだそうだ。実は、森元首相が官房長官ポストに拘ったもう一つの理由は、加藤官房長官とご本人との間に世代を超えた古い因縁があったからだという。自民党中堅代議士が続ける。
「加藤勝信さんの妻の父親、つまり岳父は、故・加藤六月元農水相。加藤六月氏は、かつて森さんと同じ清和研究会に属していた議員で、ともに安倍晋三さんの父である晋太郎さんが派閥会長を務めていた時、四天王と呼ばれる派閥幹部でした。1991年に晋太郎さんがガンで亡くなった直後、派閥の後継を巡って森さんと加藤さんは激しく対立したのです」
当時、「三六戦争」と呼ばれた人事抗争の主役は、同じく四天王の一角を占めていた故・三塚博元大蔵大臣と加藤六月氏。森元首相は三塚支持を打ち出して、三塚派誕生の功労者となり、後に派閥を受け継ぐ基盤を作り上げた。一方、敗れた加藤氏は派閥を追放されて、加藤グループを結成したものの、その後、自民党を離党することになった。
「一見すれば、豪放磊落なキャラに見えますが、森さんは非常に執念深い人。自分が幹事長をやっていた時代に自民党を離党した石破(茂)さんのことを決して許さないと言い続けていることは有名です。だから、加藤六月さんの娘婿が官房長官の要職を占めることを何としても阻止したかったのでしょう」(同)
小泉政権以降、清和研“我が世の春”の流れに乗り……
それにしても、森元首相はなぜかくも長きにわたって政治的な影響力を保てたのか。
清和政策研究会に所属する別の代議士がため息をつく。
「サメの脳みそ、ノミの心臓と陰口を言う人もいたほどですから、政策能力が高かったわけではないことは誰でも知っていた。密室の談合で総理になれたのも含め、すべては人間関係の賜物でしょう。清和研にとって良い時代だったのも確かです。ちょうど森さんが総理を退陣した後の小泉政権以降、派閥は膨張する一方で、小泉、安倍、福田と3人もの総理を出しました。この我が世の春の時代に、森さんは町村(信孝)さんや細田(博之)さんといった派閥会長たちに先輩としての影響力を保ち続け、失脚した中川秀直さんなど自分の取り巻きたちを大臣や党のポストに押し込み続けたのです」
むろん清和研の幹部の中にも、森元首相の能力と政治的な影響力のギャップに眉を顰める有力者がいなかったわけではない。
「例えば、下村博文さんは森さんと同じ文教族でありながら、森さんとは折り合いが悪いですね。つまり、森さんも誰とでもうまくやれてきたわけではないんです。同じ派閥に属していながら、関係が悪かった代表例が福田康夫元首相でしょう。福田さんは、森政権の末期、女性スキャンダルを『FOCUS』に書かれて辞めた中川秀直官房長官を引き継いで、女房役を務めました。ところが、福田さんは森さんの能力や資質に根本的な疑問を持っていたため、総理に仕えるという感じはなく、ビジネスライクに後始末をしていた。稀にみるドライな関係の総理と官房長官だったのです」(同)
福田康夫元首相が潰しに行った「勲章授与」
鞘当てが少なくなかったという2人のエピソードもある。
清和政策研究会の関係者によると、
「台湾の李登輝さんが心臓病の治療のために日本に来たがっていた時、森さんが首相の立場でビザの発給を決めました。その功績に報いようと、2年後、森さんが台湾に招待され、勲章をもらえる可能性があった際、小泉政権の福田官房長官は、その情報を毎日新聞にリークして記事を書かせました。当時は中国と日本の関係がギクシャクしていて、福田さんはアメリカのライス大統領補佐官から直々に“北朝鮮をめぐる6カ国協議を進めるために、日中関係を改善してほしい”と頼まれていたのです。そういうタイミングで、森さんに台湾で派手な動きをされると困るため、福田さんは奥さん同士が姉妹という関係の毎日新聞の斎藤(明)社長に相談して記事を作らせ、結果的に、勲章授与は3年後に先送りになったとされているのです」
もちろん森元首相も殴られる一方ではない。第一次安倍政権が倒れた後、総裁選に立候補しようとする福田氏を邪魔するために、他派閥の石原伸晃氏を総裁候補として担ごうと大運動し、周囲を呆れさせたこともあったそうだ。
「森さんの政治家としての功罪を総決算すれば、あまりに失言が多く、おそらく罪の方が多くなるとは思いますが、北朝鮮の拉致問題は、森さんが発端になって進展したことも事実です。というのも、森さんが交際していた銀座のクラブママが、ひょんなことから文明子という在米韓国系ジャーナリストと仲良くなった。文明子さんは、90年代に金日成インタビューをしたこともある大物で、金正日総書記とも親しかった。森さんは自分の愛人から文さんを紹介され、そこから動き出した面がないわけではないのです」(同)
いずれにせよ、政策立案の能力で語られるべき政治の世界を、人間関係の良し悪しと貸し借りだけで乗り切ってきた森元首相の時代は終わった。日本の政治に与えた負の部分がどれほどなのか、忖度なきマイナス査定がこれから始まる。