水戸学を抜きには語れない「青天を衝け」、第9話「桜田門外の変」の思想的背景は

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水戸学による事件が多発

 皮肉なことに最後に攻められることになるのは1866(慶応2)年に15代将軍となった慶喜だが、最後まで天皇と衝突することは避けている。水戸学を守った。1867(慶応3)年には大政奉還に至る。

 幕末は水戸学を背景にした同藩士による事件が多発した。桜田門外の変の2年後、1862(文久2)年に起きた坂下門外の変もそう。老中・安藤信正が登城途中、同藩士6人に襲われ、負傷した。

 動機は安藤が進めた公武合体運動にあった。安藤は朝廷との関係を修復し、幕府の権威も高めるため、孝明天皇の異母妹・皇女和宮を14代将軍・家茂に降嫁させることを決めた。

 だが水戸藩士らは「和宮を人質に孝明天皇に揺さぶりをかけるのではないか」と憤り、襲撃におよんだ。もっとも、全員が現場で斬殺されている。命拾いした安藤も応戦せずに逃げたことから、幕府内の反対勢力の不評を買い、罷免されてしまう。

 まだある。水戸浪士がイギリス公使館も襲った。1861(文久元)年とその翌年の東禅寺事件だ。攘夷派の同浪士14人が江戸高輪東禅寺の同公使館を襲撃。公使や公使館書記官らが負傷するなど、双方に多数の死傷者が出た。幕府は賠償金1万ドルを支払って決着させた。浪士たちは金の国外流出による物価上昇に憤っていた。

 それぞれの事件には水戸人の気性も関係しているのかも知れない。古くから水戸人は「理屈っぽい、怒りっぽい、骨っぽい(水戸の3ぽい)」とされているからだ。

 水戸藩士による事件の極めつけは幕末最大の悲劇とも言われる天狗党の乱。1864(元治元)年、水戸藩士の尊王攘夷派のうち、天狗党と呼ばれた急進派の800余人が、孝明天皇が幕府に命じた攘夷を促すため、筑波山に挙兵した。

 藩内保守派の諸生党との激しい対立も一因だった。天狗党は藩内で苦しい立場に追い込まれていた。頼みとした斉昭は既に亡くなっていた。

 やがて急進派に同調する郷士や農民らが加わり、兵は約1000人に。推されて総大将となったのは水戸学研究者で斉昭の下で藩政改革に当たっていた武田耕雲斎(津田寛治、55)。一行は心情を訴えようと、慶喜のいた京都を目指す。

 これを幕府が黙って見ているはずがなく、諸藩に天狗党討伐令が発布される。水戸藩の対抗勢力も天狗党を追った。だが、鉄砲はもちろん、10数門の大砲まで持っていた天狗党は進み続けた。

 やっと歩みが止まったのは越前新保(現敦賀市)。加賀藩に降伏した。諸藩勢1万数千人の追討軍が迫っていたからだ。幕府に命じられ、追討軍の総大将を務めていたのは図らずも慶喜だった。

 降伏時に823人だった天狗党の面々のうち、353人が処刑された。武田ら首謀者の家族まで死罪になった。処刑を免れた者も島流しなどの刑に。慶喜も辛かったが、身内である水戸藩士だからこそ厳しい処分に踏み切らざるを得なかった。

 明治維新に大きな役割を果たしながら、有能な人材が事件に加わったり、処刑されたりしたために残らなかった。このため、新政府に要人として加わった藩士は1人としていない。

 それを慰めるかのように北島三郎(84)が1966年に「あゝ水戸浪士」という曲を歌ったものの、この曲も忘れられている。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

デイリー新潮取材班編集

2021年4月11日掲載

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