甲子園初の“決勝・準決勝”ノーヒットノーラン投手・嶋清一 24歳で戦死「戦争がなかったら新聞記者に…」(小林信也)
塀に投げた球が…
夭逝した嶋の存在は戦死によってすべて失われたのか? 絶たれた命の一方で、嶋の魂が確かに誰かを支えたという、ささやかな事実を記したい。
「カギっ子」という言葉が社会問題になったのは昭和30年代の後半から40年代。私はそのカギっ子だった。両親が共働きで、学校から帰っても家に誰もいない。自分でカギを開けて入る。寂しいと感じた記憶はないが、それは私にブロック塀という「無二の親友」がいたからかもしれない。
ランドセルをおろすとすぐ、グローブとボールを持って家の前に走り出る。そこは私にとって甲子園球場だった。5、6メートル先のブロック塀に向かって投球する。ストライクや空振り、ゴロの枠が決めてあり、一人だけの野球ゲームに興じる。小さなノートに架空の「甲子園出場校メンバー表」を書き込み、全国の強豪校と対戦する設定だった。自分は地元・長岡高のエース。毎日、塀が相手の「ひとり野球」に熱中した。
昼は図書館で、スポーツ選手の伝記を探した。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、古橋廣之進も読んだ。その中で、強烈に心に刺さったのが嶋清一の話だった。
制球力を磨くため、嶋は校内にあるレンガの塀に向かって投球練習を重ねた。するとある日、塀に穴が開き、投げたボールが塀の向こうに行った! その光景を頭に浮かべ、仰天した。自分がいつもぶつけているブロック塀の光景と重なって、およそ信じ難かった。だが伝記には、〈同じ一点を目がけて投げ続けたため、ついにその場所に穴が開いた〉と書かれていた。
嶋清一に対する私の憧れと尊敬は、揺るぎないものになった。
(いつか自分もブロック塀に丸い穴を開けたい……)
密かな夢はついに果たせなかったが、嶋の伝説に背中を押され、孤独なカギっ子は、希望を胸に少年時代を過ごせた。
2試合連続の快記録以上に、嶋のその逸話こそが、私の少年時代を支えてくれた。それも素晴らしきスポーツの力ではないだろうか。
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