「クレイジー クラシエ」で挑戦する社内風土を作る――岩倉昌弘(クラシエホールディングス代表取締役社長)【佐藤優の頂上対決】
名門「カネボウ」の破綻から17年。主な事業は分割されるに至ったが、日用品・薬品・食品部門は「クラシエ」となり、その後、順調に業績を回復させてきた。次なる目標は「成長」。真面目で堅いとされる社風を打ち破り、新規事業の開拓を目指す社長が取り組むのは、社員の意識改革である。
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佐藤 こちらの部屋を訪ねる前、受付に置いてあった「mix juice」という印刷物を手に取りました。末尾に「Kracie MiXを進める紙」とありましたが、どういう位置づけのペーパーなのですか。
岩倉 社内外に向け、新ビジョンの「クレイジー クラシエ」を浸透させるためのコミュニケーションペーパーです。
佐藤 この6号のタイトルが「社長が、社員にどうしても相談したかったこと。」でした。副題として「『社長の悩み相談室』やりました。」とあったので、思わず読み入りました。
岩倉 普段は、各部署の従業員インタビューや私と他社の社長との対談などを載せていますが、定期的に社員へのアンケートを行っているんです。この号では私の悩みを質問の形で社員に問いかけ、その回答を並べて紙面にしました。
佐藤 最初にあるのが、上司と部下の関係で、「上司はそんなにポンコツですか?」と質問されています。どこかユーモラスでもありますが、回答は「ポンコツです。(複数回答)」と身も蓋もないものから始まって、かなり真面目な答えが並んでいる。
岩倉 昨年、関西に出張した際、空港からシャトルバスに乗ったら、前のカップルの女性が「うちの上司はパソコンひとつイジれないポンコツで」と、やたらに上司を「ポンコツ」呼ばわりしていたんです。その言葉が頭に残ってしまいましてね(笑)。当社の経営理念の一つに「上司のほうを向くな」という言葉がありますが、それは上司を気にするより「生活者の目」を持つことが大切という意味です。でも、その意図が伝わっておらず、上司を無視するところがあるのを感じていました。ですからそういう悩みを投げかけてみたんです。
佐藤 二つ目は「正直なところ、今、クラシエで働いていて一番イヤなことは何ですか?」と、これもシビアな問いかけでした。これには「社外よりも社内で気を遣う」とか「明るい未来を感じず」など、厳しい言葉が並んでいます。
岩倉 そうですね、遠慮なく回答してくれています(笑)。
佐藤 社長と社員の間で、こんなに率直なやりとりができる会社は珍しいと思いました。
岩倉 当社は2007年にクラシエとして再出発しましたが、前身であるカネボウ時代には悪い情報がまったく伝わってきませんでした。ですから弊社では、いま私が考えていることも含め、会社の情報をできるだけオープンにしているんです。
佐藤 上司も部下も悪い情報を聞いて喜ぶ人はいません。悪い情報は、こうすれば良くなるとか、ダメージコントロールの処方箋も添えないとなかなか言えないものです。だからこうしたやりとりができることに、非常に驚きました。
岩倉 カネボウが破綻した時、会社がおかしなことになっているのを社員はまず新聞で知ったんですよ。朝起きたら、不正だとか、もうダメだという記事が出ていて、そこで初めて会社の状態がわかる。そんな経験はもうさせたくありませんから、会社再建に当たっては、情報開示を重視してきました。社員は会社の状況がどうなっているのか、常に知っておくべきだと思うのです。
佐藤 それがこの「mix juice」にも反映されている。
岩倉 いまは雇用が流動化していて、一生同じ会社に勤めるのがいいわけではありません。ここでやりたいことがあれば残ればいいし、不満があるなら違う会社に移ればいい。ただその際、何も教えてもらえなかったとは言われたくない。だから判断材料として良い情報も悪い情報も全部出します。それが社員のためになりますし、ひいては会社のためになると考えています。
佐藤 カネボウは粉飾決算を繰り返し、04年に破綻します。そして元社長以下幹部3名が逮捕される事態にまで発展しました。その衝撃が非常に大きく、教訓としても生きているのですね。当時、岩倉社長は、どのようなお立場だったのですか。
岩倉 大阪にいて、シャンプーなどの日用品を扱うホームプロダクツ部門の営業課長をしていました。
佐藤 私と生年が1年違いですから、当時は40代に入ったところですね。課長クラスからだと、会社の状態はどう見えていたのですか。
岩倉 おかしいな、という感覚はありましたね。年末に帳尻合わせのための数字を作って、それが許容範囲をはるかに超えているケースがいくつもありました。だからいずれ、良くない方向に向かうのではと思っていました。
佐藤 カネボウは名門企業でした。1980年代の日本航空民営化では、カネボウ会長だった伊藤淳二氏が颯爽と乗り込んで行ったことが記憶に残っています。それは山崎豊子さんの小説『沈まぬ太陽』にも取り入れられている。
岩倉 だから中堅より上の人たちは、絶対に潰れないと思っていたんでしょうね。国がカネボウを潰すはずがない、絶対守るはずだからと、あまり危機感がなかった。一方、若い人たちは「どうしよう、次の仕事を探さなきゃ」と不安に駆られていました。
佐藤 一時はペンタゴン経営と言われて、多角経営のお手本とされていました。でも実際は祖業の繊維も、拡大した分野も次々に不採算事業となっていたんですね。
岩倉 衰退期にあったというより、やってはいけないことに手を染めたのが問題だったと思います。どこかで誰かが事業縮小など思い切った決断をすれば、生き残ったかもしれません。でもトップがもう手に負えないと諦めてしまい、延命措置だけを取っていたんだと思います。
佐藤 岩倉社長自身は、どこかで辞めようとは思いませんでしたか。
岩倉 120年という歴史ある会社が崩壊する瞬間を目の当たりにするのも、一つの選択だと思ったんですね。次の職場を探すのはそれからでいいと。
再建の鍵は商品の力
佐藤 破綻後は産業再生機構の支援が入りました。
岩倉 最初の1年くらいは嫌で仕方なかったんです。初めは彼らの話がよくわかりませんでしたし、ずいぶん上から目線で指示してくるなと思っていました。でも彼らの指示は論理的で、明確で、素晴らしいものだとわかってきた。それで途中から、これだけの一流の人たちが関わってくれるのは画期的なことだと思い直し、ここから学んでやろうと考えました。いまの経営手法のほとんどは、彼らが土台を作ってくれたものです。
佐藤 カネボウがクラシエになっていったプロセスは、成功例とされていますね。産業再生機構の一員としてカネボウ支援に関わった冨山和彦氏には、このコーナーに出ていただいたことがあります。再建という仕事に面白さを感じている人でした。
岩倉 私は冨山さんと直接やりとりをしていませんが、当時関わっていた産業再生機構の方とはまだお付き合いがありますね。
佐藤 繊維事業はKBセーレンなどに、化粧品事業は花王傘下に、そして日用品・薬品・食品はクラシエと大きく三つに分割されました。やはりモノを作っている会社だから、生き残ったのだと思います。モノがなければ、山一證券のように、優秀な社員たちがあちこちの金融会社に移って、会社は影も形もなくなってしまう。
岩倉 日用品・薬品・食品と三つの生活関連の事業が残り、これならやっていけると思いました。それぞれの商品には絶対の自信があります。その品質は高く、カネボウの末期でも再生下でも、クレームはありませんでした。もしコストダウンを理由に品質を落としたりしていたら、再生は難しかったと思います。品質にこだわりがあったから乗り切れた。
佐藤 比較優位で、強い商品があったということですね。
岩倉 シャンプーの「いち髪」や基礎化粧品の「肌美精」という名前が毀損されたわけではありません。ですからクラシエと改称する前の戦略は、カネボウの文字を外し、商品名だけで宣伝することでした。
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