失踪した天才ライダー「伊藤史朗」 逃亡先のフロリダで語った「もう一度走りたい」(小林信也)
「伊藤史朗(ふみお)って天才ライダーがずっと行方不明なんだ。ピストルの不法所持で捕まった後、恋人と海外に逃げたらしい。いろんなジャーナリストが追いかけたけど見つからない。伊藤史朗に会えたらすごいスクープなんだけどな」
東銀座の雑誌編集部でそんな会話を耳にしたのは、私が大学を卒業してまもないころだった。
「知ってるよ。大藪春彦の『汚れた英雄』のモデルと言われるライダーだろ?」
「そう、小説の中にも実名で登場するけどね」
「汚れた英雄」は後に角川映画になり、草刈正雄が主役の北野晶夫を演じた。
(そんな人物がいるのか)
興味を惹かれたが、追いかけたいとまでは考えなかった。そんな難しい相手を探せるとは思えなかった。
数年後、早く何かノンフィクション作品をものにしたいとジリジリしていた27歳の春、旧知の編集者から連絡が来た。
「新しいオートバイ雑誌の、編集長になるんだ。信也君にやってほしい仕事がある」
南青山の編集部を訪ねると彼は切り出した。
「伊藤史朗という幻の天才ライダーがいてね。行方不明でどこにいるかわからない。ぜひ彼のことを書いて欲しいんです、連載で。もちろん、その間に彼を探し出して、直接会って」
「やります。ぜひやらせてください!」
私は思わず叫んでいた。
ヤマハ初の世界GP優勝
取材は、編集長から渡された2枚の雑誌コピーを手がかりに始まった。居場所のヒントは書かれていなかった。“幻の天才”の経歴を短くまとめたものだった。
1955(昭和30)年、11月5日、浅間高原で日本初の本格的なオートバイ耐久レース「第1回浅間火山レース」が開かれた。北軽井沢をスタートし、鬼押出し、六里ヶ原など浅間山麓をめぐる1周19・2キロを5周する。ホンダをはじめ12社がエントリーする250ccクラスに、丸正ライラックに乗る16歳の伊藤史朗もいた。東京・大森界隈のカミナリ族の間で一目置かれる暴れん坊で、「勝てなかったら、浅間山に飛び込んでやる」と息巻いていたが、周囲は誰も若造には目もくれなかった。レースは出場27台中15台が途中棄権する過酷な展開となった。2位に5秒の差をつけ優勝したのが史朗だった。
やがて世界で優勝を争う存在になる。63年2月にデイトナGPで優勝。7月には世界GPシリーズのベルギーGPで優勝を飾った。ヤマハが日本人ライダーで挙げた最初の勝利だった。
当時のライダー仲間に会い、順番に伝手を頼る形で、高齢だがまだ健在だった史朗の父親にも会えた。
「羽田空港から突然電話が来て、“じゃあね”と、それっきりだよ」
父親は山田耕筰に師事し、三木露風、萩原朔太郎らの詩に曲をつけたこともある作曲家だった。訪ねた時は素っ気なかったが、数日後に手紙が届いた。
〈親にも手紙をよこさない、まだ“ひと旗”揚がらないのかもしれません。私はまだ、彼の可能性を信じておりますので時を待つことにします〉
66年8月、ピストル不法所持で執行猶予中に、史朗が結婚したばかりの新妻・美奈子と二人で日本を発ったのは事実だった。
「新婚旅行に行くからスーツケースを貸して」
実家に取りに来た美奈子を母は羽田で見送っている。
やがて、思いがけないところから、幻だった史朗の背中が見えてきた。美奈子の友人から、「実は居場所を知っている。あなたに会ってもいいと言っている」と告げられたのだ。
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