東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」(第3回)石油権益をもたらしたアブダビ首長との出会い(徳本栄一郎)
右翼の黒幕、そして「東京タイガー」と呼ばれた国際的フィクサーの田中清玄。戦前は武装共産党を率い、11年を獄中で過ごし、戦後は過激化した共産党に対抗して電源防衛隊を組織する。ヤクザや復員兵も動員して発電所を守り、それがきっかけで、東京電力などとつながりが出来たのは「共産党の発電所破壊工作を阻止した男」で述べた。
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また山口組3代目の田岡一雄組長と麻薬追放運動を行い、右翼の児玉誉士夫と対立、ついに暴力団から狙撃された。身に3発の銃弾を受けるが、奇跡的に命を取り留める。(「彼はなぜヤクザから狙撃されたのか」)
そして1960年代後半から70年代、その田中が全力を注いだのが中東の石油、アブダビの海上油田の権益獲得だった。
冬のロンドンは鉛色の厚い雲が垂れ、北海から湿った寒風が吹く。空気も重く沈んだようだが、その中でテムズ川の畔(ほとり)、金融街シティは活気に満ちていた。イングランド銀行や王立取引所の近く、ムーア・レーンの通りに巨大なビルが聳える。
正面広場には盾型の紋章の旗、かつてイランで使った石油掘削機のオブジェが置かれている。ここがブリティッシュ・ペトロリアム、通称BP、中東に巨大権益を持つ英国の国際石油資本の本社だ。
1970年2月13日の昼下がり、この建物から、古武士然とした風貌の日本人が出て来た。引き締まった体を背広に包み、紅潮した顔で迎えの車に乗り込む。その日の夕方、彼からBPの副会長宛に、英文でタイプされた5枚の書簡が送られた。
「本日は、私のために多くの時間を割いて戴き、また素晴らしい昼食に感謝します。ロンドンを経つ前に、会談内容を要約し、書き送らせて戴きます」
「エル・ブンドク油田で、BPは間もなく、フランスから別会社設立に前向きな回答を得られると理解しました。申し上げた通り、これに日本側は参加する用意がほぼ出来ています」
エル・ブンドクとは、アラブ首長国連邦とカタール国境海域の油田で、従来BPが権益を持ってきた。それを近く、フランス企業と共同出資する別会社に移す。その際、BPが持つ権益の一部を日本に譲渡するという交渉だ。
それから2ヵ月後の4月6日、アブダビ駐在の英国政務官が、ロンドンの外務省に報告を送った。
「田中は2日前に当地を訪れ、明日、東京へ戻る予定だ。昨夜、私の自宅で彼と話したところ、今月13日から17日にBPの専門家が東京へ行き、日本側と協議する。来月初めに合意書が作られ、月末には正式な署名が行われる」
「田中によると、彼の会社、田中技術開発は(油田開発に)参加しないが、BPとの交渉で日本側のスポークスマンに選ばれたという」
以上は、ロンドンの英国立公文書館で入手したBPと英外務省の機密解除文書からだが、SEIGEN TANAKAの文字が頻繁に登場する。あの狙撃事件から7年、生還した彼は今、「東京タイガー」と呼ばれ、中東や欧州を駆けるフィクサーとなっていた。
王様に説教
終戦直後から行動を共にした側近、太田義人によると、始まりは、アブダビのザーイド首長との運命的な出会いだった。最初は勇んで乗り込んだものの、交渉の糸口もなく、田中は途方に暮れていたという。
「後で通訳した人間から聞いたんだけどね、アブダビの王様に石油の話で会いに行ったが、中々ルートがつかず、ホテルで待っていたと。そこで、たまたま知り合ったシャンデリアの商人に、『明日、王様に会うんだけど一緒に行くか』って言われ、車に乗って行ったんだって。あの頃、王様は住民を集めて、皆の話を聞いてたんです。そこで田中は、預かっていった明治天皇の像を渡してね、こう言ったそうだ。『日本には明治天皇という大変立派な方がおって、これだけの国を作り上げた。あなたも、こうならなくちゃいかん』と」
石油の話に出かけたのに、いきなり説教から始めたという。相手もさぞ面食らったと思うが、当時のアブダビの事情を見れば無理もなかった。
今でこそアラブ首長国連邦のアブダビやドバイは高層ビルが並ぶが、60年代は、砂漠の鄙(ひな)びた街に過ぎなかった。そこへ幾つもの小規模な首長国をまとめ、連邦の初代大統領に就くのがザーイドだ。石油資源こそあれ、どうやって将来の国を作るか、葛藤の日々が続いていた。
「それから、田中が狙撃された時の話になってね。体に傷があるでしょ。俺は日本のテロリストにやられた、と。服を脱いで、ピストルで撃たれた跡を見せたっていう訳。俺は空手をやるんだ。ここに弾が当たって、こうやって叩いて、相手を押えて、突き出したと。実演したらしい。そしたら、王様がすっかり喜んじゃってね。王様も刺客に狙われたことがあるらしい。すっかり同志になって、いつでも来てくれってなっちゃった。それが縁です。金とか、商売とかの話じゃないよね。通訳も、いや、凄い勢いだったって言ってた」
信じ難いが、田中が数々の石油権益を手にしたきっかけ、それはアラブ首長国連邦の初代大統領の前のストリップ、もとい鬼気迫るプレゼンテーションだった。かつて武装共産党、電源防衛隊で見せた激しさを彷彿とさせる。
そして本人もザーイドに、「アラブ世界でピタリと波長の合った数少ない人物の一人」と最大限の称賛を送った。
「お付き合いをしてみて、僕はその人柄、識見、判断力、行動力、それらをすべて総合して、彼こそがアラビア人としては最高の英傑だと思った。今でもこの評価は変わりません。彼が偉いのは、自らの部族であるアブダビのことだけを考えているのではなく、同一種族のドバイ、アジマーン、シャルジャ、ウムアルカイワイン、フジャイラ、ラスアルハイマやオマーンなど、アラビア湾岸のアブダビと同一部族全体のことを常に考えている点だった」(「田中清玄自伝」)
「このシェイクザイド大統領がいたお蔭で、日本は広大なアブダビ海上油田開発に参加できたんです」(前掲書)
実際、この出会いは、わが国に幾つもの石油権益をもたらした。67年、アブダビ首長国は欧米に加えて日本にも権益を開放、丸善石油、大協石油、日本鉱業が共同で入札に参加する。落札した3社はアブダビ石油を設立、69年に待望の出油に成功した。
先に触れたエル・ブンドク油田もそうで、4社の石油会社で合同石油開発を設立、BPの持ち分の一部を獲得した。またBPがアブダビ沖に持つ海上油田、アドマ鉱区を譲り受け、発足したのがジャパン石油開発だ。BP首脳も、田中とザーイドの関係を知り、最初から胸襟を開いてくれたという。
現在、日本の原油輸入量の内、アラブ首長国連邦は、サウジアラビアに次いでじつに3割を占める。その発端は、半世紀以上も前のアブダビ首長との邂逅だった。
その恩恵を受けたのが、東京電力を始めとする電力業界である。当時は高度経済成長の最中、電力需要はうなぎ上りに増え、比例して伸びたのが火力発電の原油の輸入だ。すでに水力発電主体の「水主火従」から火力重視の「火主水従」になり、かつ石炭でなく石油だった。その輸入の9割が中東からで、それも欧米の国際石油資本を介した。商社や石油会社の担当者もニューヨーク、ロンドン駐在で、中東にはほとんどいない。
そうした中、切り込み隊長となったのが田中だが、行動原理はどうも石油だけではなさそうだ。太田の証言を続ける。
「その後の田中の発想が面白いんですよ。空手の連中を連れていって、アブダビの軍隊に空手を教えたんです。向こうの陸軍将校の待遇でね。それで、ずっと教えておった。やはり、石油ってのは、田中みたいに無茶苦茶な人でないとね。普通の商売人が行ったんじゃ、窓口に行ってくれ、となるでしょ」
建国直後のアラブ首長国連邦は、まだ軍隊も整備の途中だった。そこへ空手の指導者を送り、将来を担う若者を鍛え直した。やがて要職に就いた彼らは、生涯、その恩を忘れなかったはずだ。
「通訳の話を聞くと、王様と会ってる時、オタイバがいてね、『デビル(悪魔)』って嫌な顔をしたらしい。でも田中は、石油の話で、オタイバなんて全然相手にしてないから。何かあると王様のところに行って、直に話をする。ああいう国だから、分かった、すぐにサインしろって。今はとても出来ないけど、当時はそれが出来たんだね」
念のために言うが、オタイバは、アラブ首長国連邦のれっきとした石油大臣だ。それを頭越しに、トップと勝手に話を進めてしまう。これでは大臣の面目が立たない。だがザーイドの同志を自負する彼に、それ以外、ただの小役人だったのだろう。
面白いのは、続いて中東に乗り込んだ商社や石油会社を、田中が「油屋ども」と罵っていたことだ。後に、あるインタビューでこう述べている。
「困ったことに、人間を物や機能としてしか見ない似非合理主義者がハンランしている。経済専門家という欠陥人間は、アラブならアラブを油という観点からしか見ない。軍事評論家は軍事力だけで中東問題を、ベトナム問題を見る。そこに住んで、食い、眠り、祈っている人たちのことは念頭にない。私は違う。人間として、人間の生活としてアラブを見る。日本を見る、アメリカを見る。これが、私の見通しが比較的正しく当たるゆえんです」(「月刊プレイボーイ」、1981年3月号)
俺はアラブの国づくりに参加してる、油欲しさに擦り寄る奴らと一緒にするな、という訳か。
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