ブラジル・ボルソナーロ大統領に強敵現る

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ルーラ元大統領の有罪判決を取り消すというブラジル最高裁の判断は、来年10月に実施される大統領選挙に向けたブラジル政治の見通しを塗り換えた。

 3月8日、ブラジル最高裁判所のエジソン・ファキン判事は、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ元大統領を収賄罪などで禁錮刑に処した一審と二審の有罪判決を取り消すという判断を下した。一審から再審理されることになり、完全に無罪となったわけではないが、新たに二審判決が下されるまでの期間、選挙に立候補できる資格を回復した。仮に来年の大統領選に出馬すれば、ルーラはジャイール・ボルソナーロ大統領の最大の対抗馬になる。

揺らぎはじめた捜査の正当性

 新型コロナの感染拡大が続いているブラジルは今、国家衛生史上、最大の危機にある。

 米国ジョンズ・ホプキンス大学の調査によれば、2021年3月末でブラジルの感染者数は約1266万人、死亡者数は31万7600人超と、いずれも世界2位となっている。ブラジルの感染者が多い要因の1つは、世界で5番目(約2億1000万人)となる人口規模であり、人口10万人あたりの感染者数(死者数)は世界平均に比べても、必ずしも高い数値とは言えなかった。しかし2月頃より猛威をふるい始めたブラジル変異型は感染者の致死率も高く、ブラジルにおける死者数は3週連続で世界一を記録した。

 ブラジルがこうした危機を迎える中で、最高裁はルーラに対する過去の有罪判決を取り消す判断を下した。

 ルーラは、国営石油会社「ペトロブラス」をめぐる汚職事件に関与した疑いが持たれ、2017年に収賄罪などで起訴した。一審は南東部クリチバ市(パラナ州)の連邦地裁で、二審はポルトアレグレ市(リオグランデドスル州)の連邦地裁で有罪判決を受けていた。

 しかし最高裁のファキン判事は、複数の事業者が絡むルーラの罪状は、ペトロブラス事件との関連が明らかでないため、同事件を担当したクリチバ市の連邦地裁ではなく、首都ブラジリアの連邦地裁で行うことが適切だったと判断いた。そのため、同案件をブラジリア連邦地裁に移して、一審から再審理するように命じた。

 ペトロブラス事件は大物政治家たちを次々と逮捕した国内最大級の汚職捜査だったが、もともとクリチバ市連邦地裁の担当判事が、検察官に指示して違法な盗聴・証拠収集を行ったとの疑惑もあった。そうした全容が最高裁の審理の過程で次第に明るみになると、本捜査の正当性は揺らぎはじめた。

 こうした流れを受け、3月23日、最高裁は判事5人による投票を行い、ルーラの裁判に対する判決が偏っていたとの判断も示している。

 ブラジルでは、2010年に「二審で有罪判決を受けた者は被選挙権を失う」ことを規定したクリーン・レコード(フィッシャ・リンパ)法が制定されているため、今回の最高裁判断により、ルーラの処遇はいったんこの法律の適用範囲外となった。再審理の長期化も予想されるため、ルーラの大統領選挙への出馬は現実味を帯びてきた。

田中角栄とも重なるルーラの半生

 近年のブラジル政治経済の盛衰を語るうえで、ルーラほど象徴的な人物はいない。

 清濁併せ吞む政治家である彼の壮絶な半生は、日本の高度経済成長期に数々の改革を断行した果てに、ロッキード事件で逮捕・収監された「庶民宰相」田中角栄の生涯とも重なる。

 ルーラは1945年、ブラジル北東部の貧しい農家に8人兄弟の7番目として生まれた。サンパウロ州に出稼ぎに行った父親と再会するため、7歳の時に母とともに一家でサンパウロ州に移り住んだ。靴磨きから仕事をはじめ、日系人の洗濯店で働き、自動車工となり、やがて労働組合の指導者として頭角を現した。軍事政権期には、禁止されていた労働ストを行い、投獄も経験した。

 出所したルーラは、1980年に労働者党を結成すると、労働組合や土地なし農民運動、先住民運動、キリスト教団体などを支持母体に、草の根の民主主義を標榜した。労働者党は手始めに党員を市長選挙に送り込み、主要都市の市長を次々に輩出することで全国規模の政党となり、1990年代からの新自由主義改革による格差拡大で不満を募らせていた大衆層の受け皿となった。そして4度目の挑戦となった2002年の大統領選に勝利し、大統領の座を獲得した。

 ルーラは大衆層の典型的な生まれだったからこそ、市民から絶大な共感を集めることができた。2003年元日の大統領就任の宣誓式で、「大学の学位がないと何度も非難されてきたこの私が、生まれて初めて免状を手にします。それがわが国の大統領という称号です」と涙ぐみながら語っている。高等教育を受けずとも、類まれな人心掌握力を発揮して国家元首にまで昇り詰めた、ルーラの人格を物語るエピソードである。

根強いルーラの政治力への信望

 ルーラが大統領を務めた2000年代は、ブラジルが新興国として高度経済成長を経験した時代でもある。彼を支持する大衆は、ルーラの半生とブラジルの成長を自身の人生に重ね合わせ、「個人」「ルーラ」「ブラジル」という3つの発展を同時に実感することができた。

 当初、ルーラの労働者党への政権交代は、急進的な社会改革を断行するのではないかとの不安を助長して、一時ブラジルの通貨レアルが急落する事態を招いた。

 しかし、実際の政治運営では実利を優先し、前政権が進めた現実的な新自由主義改革の路線を継承した。この路線の継承に成功した要因としては、ルーラ政権が政権内に中道勢力を幅広く登用したこと、広範囲の社会保障政策によって新自由主義改革で生まれた格差を是正したことがあげられる。

 他方、政治家としてのルーラは、ブラジルの国家と社会を統率するため、常に政治とカネの問題に巻き込まれてきた。

 ルーラは2011年に任期満了(3選禁止)で大統領の座を降り、ジルマ・ルセフ労働者党政権が続いたが、2012年頃からブラジルの政治経済が低迷すると、先述した汚職の容疑が持ち上がった。政財界を揺るがした一連の汚職事件により、労働者党政権は崩壊した。

 この汚職事件の混乱の最中に登場したのが、ボルソナーロであった。一向に収束しない政治経済の危機を前にして、ブラジルの政治に絶望した市民たちは、「古い政治」を批判するボルソナーロに、ブラジルの新たな救世主としての期待を膨らませていったのである。

 ボルソナーロへの人気が高まるとともに、かつてブラジルを希望の大国に押し上げたルーラは、一転して諸悪の根源として多くの市民から憎悪の対象となった。それでも無実を訴えて社会の不正義に抵抗するルーラの姿は、苦境にある大衆層にとって「不屈」の象徴であり続けた。労働者党への支持は大幅に落ち込んだものの、いまだに危機を打開するルーラの政治力を信望する声は根強く残っている。

支持率を大幅に落としたボルソナーロ

 ルーラ裁判をめぐる再審理の判決がいつになるにせよ、大統領選に向けたブラジル政治の見通しは当面、ルーラの出馬を前提に展開されるだろう。

 今回の最高裁判断が示される前の世論調査では、現職ボルソナーロが勝利すると予想されていた。先の地方選挙では負けたと評価されたボルソナーロ陣営だったが、次の関門とされた2月の上下両院議長選挙ではボルソナーロ派の議員が勝利し、議会内で高まり始めていた大統領弾劾の機運も一時は払しょくした。コロナ対応で批判が集まるものの、現職の大統領に匹敵する有力な対抗馬が不在であることも、ボルソナーロ優勢の要因となっていた。

 ところがルーラの出馬の可能性が示されたことで、市民の意識は変わりつつある。ボルソナーロは支持率を大幅に落とし、現状ではルーラの支持率とほぼ同じである。

 もっとも3月21日に発表された世論調査では、ファキン判事によるルーラ裁判の取り消し判断は、42%が「良い」、51%が「悪い」と答えるなど、市民の評価は二分している。

2002年大統領選は再現されるか

 では、ボルソナーロ、ルーラ両陣営は大統領選をどのように戦うのか展望してみよう。

 ボルソナーロ陣営が望むのは、ボルソナーロが勝利した2018年大統領選の忠実な再現である。ボルソナーロ陣営は当時、左右勢力が分極化する中で労働者党を中心とする共産主義化への恐怖を煽り、社会を分断することで選挙戦に勝利した。政権側は既にルーラの復活に呼応した左派勢力の言動に警戒感を示している。

 他方、ボルソナーロはブラジルの「古い政治」を打開した「新しい政治」を目指す改革型の指導者でもあった。しかし、コロナ禍という非常事態の状況下で、構造的に身動きが取れなくなり、国家全体の合意形成を困難にしている。就任3年目となった現在、政治運営において多様な勢力との利害調整に迫られており、その政治運営は「古い政治」に回帰しつつある。

 3月29日には、エルネスト・アラウジョ外相が辞任を表明すると、政府はフェルナンド・アゼベド国防相など複数の閣僚の交代を発表した。この交代は、連立相手の中道勢力が議会を潤滑に運営するために圧力をかけたからだと言われている。

 他方、国防相の解任をうけて30日には陸海軍のトップの解任も発表された。ブラジルの軍は一見、軍出身のボルソナーロの支持基盤のようにうつるかもしれない。しかし、もともとブラジルの軍幹部はボルソナーロの言動には冷ややかだった。「軍政への回帰」や「軍のクーデター」など、軍の政治的な介入をちらつかせる言動を取るボルソナーロとは異なり、軍は軍政期の反省から市民の信頼を得るため、政治と距離を置いた役割を全うしてきた。そうした考えを擁護する立場にいた国防相が事実上更迭されたことで、事前に知らされていなかった司令官らは抗議して、三軍の長が同時に解任される事態となった。

 政府内の混乱は、市民の目に見える形で表面化している。30%前後の強固な支持層は健在だが、「新しい政治」に期待した無党派層から次回の選挙で改めて支持を集めることは難しい。

 対するルーラ陣営が望むのは、政権批判の受け皿となってルーラが勝利した2002年大統領選挙の再現である。アメリカ大統領選挙でジョー・バイデン(民主党)が勝利した潮流を踏まえても、ルーラ陣営は穏健な政治姿勢を有権者に訴えて、数年の間に国内外で低下したブラジル政府の信頼回復と分断社会の統合に努めることが指針となるだろう。事実、最高裁判断の後に開かれた記者会見で、ルーラ自身、調整者としての役割を訴えている。

 ただし、ルーラが幅広い政治勢力と調整を図ることで、かえってボルソナーロ政権が断行してきた財政改革が後退することも懸念される。近年のブラジルが目指してきた経済協力開発機構(OECD)加盟には、条件として厳格な汚職対策の実施が課せられているが、これが暗礁に乗り上げるとの見方も出ている。

「かつてのルーラ」は越えられない?

 市民から最も愛され、最も憎まれるルーラは、危機のブラジルを救うことができるのか。

 コロナ危機に直面する今、どの政治家が政権を担っても政策スタンスに大きな違いは生まれにくい。もしそうであれば、政権が進むべき路線を、対立する政治勢力や市民にどう伝え、合意を形成していくかが重要である。

 その点、ボルソナーロの数々の言動は一部の市民から人気を博してきたが、数々の誤解も生み、国内外の政治勢力との調整を困難にしてきた。対照的に、その類まれな調整能力と人心掌握力で数々の難局を突破してきたルーラの政治力に、期待が集まる雰囲気は生まれやすい。

 しかし、全てを変えてくれる救世主を熱狂的に待望することは、ブラジル政治のより良い未来の姿と言えるのか。「不屈のカリスマ」としてのルーラは、新興国の高度経済成長という時代の潮流が生み出した産物である。その意味で、今のルーラにかつてのルーラを超える指導力は期待できない。困難の時代にあるからこそ、時代にあった政治家を選び、したたかに利用する、市民の現実的な判断能力も問われている。

舛方周一郎
東京外国語大学世界言語社会教育センター講師。1983年生まれ。上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士後期課程修了、博士(国際関係論)。サンパウロ大学国際関係研究所客員研究員、神田外語大学専任講師を経て2020年4月より現職。専門は国際関係論・現代ブラジル政治。著書に『「ポスト新自由主義期」ラテンアメリカの政治参加 』(共著/2014年/アジア経済研究所)、『新版 現代ブラジル事典』(分担執筆/2016年/新評論)、『ラテンアメリカ 地球規模課題の実践』(共著/2021年/新評論)、『UP plus新興国から見るアフターコロナの時代―米中対立の間に広がる世界』(共著/近刊/東京大学出版会)など。

Foresight 2021年4月2日掲載

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