古賀稔彦さんを偲ぶ バルセロナ五輪“準決勝”の背負い投げは誰にも真似できない理由

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 享年53。「平成の三四郎」と呼ばれた柔道家、古賀稔彦の若すぎる病死(腎臓がん)に衝撃が走った。伝家の宝刀は背負い投げ、中でも相手の襟を持たず片腕を両腕で抱え込んで投げる一本背負いである。背負い投げの名手といえば昭和時代は「三四郎」と呼ばれた岡野功をはじめ、猪熊功、遠藤純男、藤猪省太(当時は省三)、細川伸二、平成では野村忠宏、阿部一二三が筆頭株だろう。筆者の印象が強いのが1970年代、世界選手権(80キロ級など)の男子中量級を4連覇した藤猪である。当時は階級が少なく、ある意味今よりも価値が高い連覇といっていい。低い姿勢から素早く潜り込み、相手をふわっと浮かせて畳に叩きつける恐怖の背負いは強豪たちを震撼させた。だが「金メダル確実」とされた1976年のモントリオール五輪では、直前の怪我からの復帰が間に合わなかった。80年のモスクワ五輪に賭けたがボイコットで日本は不参加。名選手の藤猪はオリンピックだけは不運だった。

 引退後は天理大学と京都産業大学の教授を歴任、母校天理大学では監督として野村や大野将平などを育てた。全日本柔道連盟ではジュニアのコーチもつとめ、古賀が出場する重要な国際大会にはほぼ同行していた。

 突然の死去に藤猪は「驚きました。53歳なんて若すぎます。指導者としてもまだまだ頑張ってくれるはずだったのに。残念でたまりません」と惜しんだ。

 さて、「平成の三四郎」古賀のハイライトは1992年のバルセロナ五輪男子71キロ級だ。現地入り後に78キロ級の吉田秀彦との練習中にじん帯を痛める大怪我をし、関係者は絶望した。しかし果敢に出場して見事に優勝し念願の金メダルを獲得、ソウル五輪での3回戦敗退の無念を晴らしたのだ。

 バルセロナで古賀の決勝は判定勝ちだったが、「伝家の宝刀」が炸裂したのは準決勝。ドイツ選手を豪快な一本背負いで畳に叩きつけた。高々と担ぎ上げられた相手が落ちてゆく光景は爽快だったが、間近で見ていた藤猪氏は「あの背負いには驚きました」と振り返る。

「担いだら普通はすぐに体を捻って横へ投げるのですがあの時、古賀は担いだ後、まっすぐに2、3歩ほどゆっくり歩いて、おもむろに叩き落としたのです。理由は痛めていた左の膝です。捻って投げようとすれば必ず膝に大きな衝撃が来ます。それでは準決勝に勝ってもまず決勝に出場できなかった。古賀は瞬間的に決勝戦を考えたのです。こんなことは誰も真似できませんよ」

 もう一つのハイライトは1990年春の全日本選手権。古賀は無差別のこの大会に果敢に挑み、倍近い巨体の相手を倒して勝ち上がり準優勝したのだ。中でも150キロクラスの巨漢の三谷浩一郎までが転がされていたのには筆者も驚いた。

「さすがに決勝の小川(直也)戦ではそれまでに体力を使い果たしてしまい敗れましたが、あの勝ち上がり方はすごかった。小さい方は相手の倍動かなくてはならない。スタミナが並外れていないと無理です。やはり吉村(和郎・全柔連コーチ)さんの厳しい指導を克服した成果ですね」

 そう話す藤猪自身もかつて重量級の重鎮、遠藤純男(モントリオール五輪93キロ超級銅メダル)を背負い投げで一本に仕留めたり、ミュンヘン五輪(1972年)の無差別代表の篠巻政利にも勝つなどして柔道界を沸かせた。「小よく大を制す」においても古賀の先輩なのだ。

 背負い投げは小柄な選手が大柄な選手を投げる時に使う代表的な技とされるが言葉ほど簡単ではない。「私は、相手を引き落とすという感じでしたが、古賀は高く担ぎ上げて落とすというタイプですね。背負い投げはそれぞれ特徴があります」と藤猪。

 普通、背負い投げは「低く入れ」と教えられる。古賀のような腰高な背負い投げがありなのか……。不思議だった筆者は古賀が現役の頃、自ら撮影した連続写真のフィルムを調べたことがある。古賀は相手を一本背負いで担ぎ上げた後、自らの左腕をさっと放して背中にまとわりついている相手の足を、その手でズボンを一瞬つかんで跳ね上げていた。動きながらの瞬間的な対応だが、天性の才能と猛練習からくるものだろうと感心した。

 藤猪は古賀について「吉村先生に子供の頃から徹底的に鍛えられたことで養った超人的なスタミナと精神力の強さです。これが半端ではなかった。私と違い体質的に減量もしんどかったが古賀はすべて克服していきました」と称える。

 バルセロナ五輪で総監督を務めた上村春樹講道館長(70、モントリオール五輪 無差別級優勝 元全柔連会長)にも振り返ってもらった。

「古賀は吉田と同じ部屋でしたが怪我の後、コーチ陣からは古賀は(選手村から離して)ホテルにしようという声も強かった。しかし私は部屋で一人になると吉田が却って悩んでしまうのではないかと考えた。『お前がしっかり古賀の面倒を見ろ。先に金を取ってこい。そうすれば古賀も行ける』とけしかけ、同部屋のままにしました。そうは言ったものの賭けだったですね」

 吉田は見事に期待に応え、決勝で米国選手を鮮やかな内またに仕留めて優勝し、古賀にバトンタッチしたのだ。バルセロナ五輪の男子柔道、無差別級では小川直也が決勝で敗れるなどし、金メダルは吉田と古賀だけだった。

 上村は「あの時、古賀にとって何一ついい条件はなかった。試合当日とか、ずっと前の怪我なら何とかなることが多い。しかし10日くらい前の大けがというのは最悪です。絶望的でした。それがあの素晴らしい結果。神様がいたとしか思えなかった。私は試合のことなどをこまめにメモしますが、あの日のノートには神様と書きましたね」と語る。そして「谷本歩実のような一流選手の指導だけではなく全国各地で底辺から盛り上げてくれていた。死んだなんて信じられない」と早世を悼んだ。その後、上村は「平成の三四郎」に異例の九段を贈呈することを決めた。

 4年ほど前だったか、講道館杯の会場で筆者は古賀に阿部一二三評を伺ったことがある。べた褒めだったが、「古賀さん自身の現役の頃を思い出しませんか?」と訊くと「そうなんですよ。もう僕の選手時代と同じ。僕そのものですよね」と話した。絶賛した相手が自分であるという……。無邪気な笑顔には吹き出しそうになった。正直で朴訥、飾らない古賀は佐賀県出身。母の愛子さん(79)には心配させまいと、がんのことは伝えていなかった。

 5月には県内を東京五輪の聖火ランナーとして走り、久しぶりに故郷に錦を飾るはずだった。駆け足の人生を閉じた翌日、福島県から聖火ランナーがスタートしていた。合掌。(文中敬称略)

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

デイリー新潮取材班編集

2021年3月27日掲載

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